イギリス国教会の成立
ヘンリ8世の離婚問題に端を発したイギリス宗教改革では、彼が1534年に国王至上法(首長法)を発布し、イギリス国教会を設立した。エドワード6世が一般祈祷書を制定して教義が新教化された。のちにフェリペ2世となるスペイン皇太子と結婚したメアリー1世がカトリックの復活をはかったが、エリザベス1世が1559年に統一法を公布してイギリス国教会を確立した。
イギリス国教会の成立
イギリス(イングランド)では、バラ戦争の終結後成立したテューダー朝のもとで中央集権化が進められ絶対王政が成立した。伝統的な信仰にとらわれている広範な民衆がいる一方、ルターの改革思想に共鳴し、また教皇のイギリス教会支配や教会による富の保有に批判的な国民意識も醸成されつつあった。イギリスの宗教改革は、絶対王政の政治的・経済的利害に動かされたものではあったが、イギリスの国民意識や利害感情のうえにたち、国内でこれを支持する人々も多くいたのである。
ヘンリー8世(イングランド王)(位1509〜1547)は伝統の信仰に忠実で、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられていた。彼は、兄の死後その妻であったスペインのアラゴン王家出身のキャサリンを妃に迎えたが嫡子に恵まれず、彼女と離婚し、宮廷の若い侍女アン・ブーリンとの結婚を望んだ。しかし、スペイン国王兼ドイツ皇帝カール5世(神聖ローマ皇帝)の伯母でもあるキャサリンとの結婚の解消は、教皇の承認をえられなかった。
結婚問題について別の解決を求めたヘンリー8世(イングランド王)は、ケンブリッジ大学教授トマス・クランマーの示唆により、キャサリンとの結婚を無効とし、クランマーをカンタベリ大司教にし、アンとの結婚の合法性を認めさせた。これに対し教皇が破門をもって応えると、1534年国王至上法(首長法)を発布し、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とし、ローマから分離したイギリス国教会を成立させた。これに反対した『ユートピア』の著者として名高いトマス・モアらは処刑された。さらにヘンリー8世は、王の首長権を拒否した多数の修道院に圧迫を加えたばかりでなく、さらにその財産奪取を目的に修道院を解散させた。修道院の財産の没収によって、王室の財政基盤は強化された。教会組織としてはカトリックから独立していたが、イギリス国教会は教義や儀式などの点で、カトリックの伝統を多く残していた。当時イギリスでは、教皇の権威の復活を望むカトリックもいたが、教義や儀式では根本的改革は望まず、ただイギリスの教会を教皇の支配から切り離すことで満足していた人々が多数を占めていた。しかし、大陸の宗教改革のように、教義その他でいっそうの改革を進めようとする人々もいた。
次のエドワード6世(イングランド王)(位1547〜1553)の時代、英語で書かれた共通祈祷書や信仰箇条が制定され、国教会にもカルヴァン派の教義がとりいれられたが、それは旧教と新教の中間的な特色をもつものであった。エドワードのあと即位したメアリ1世(イングランド女王)(位1553〜1558)は離婚されたキャサリンの娘であった。彼女はカトリックを復活し、ローマとの関係を回復し、旧教国スペインの王子フェリペ(のちのフェリペ2世(スペイン王))と結婚した。反カトリックの「異端」に対する厳しい弾圧は「ブラッディ・メアリー」の名を残し、イギリス人の間に反教皇的な傾向を助長させることとなった。
不人気なメアリー1世(イングランド女王)の死後、1558年アン・ブーリンの娘エリザベス1世(イングランド女王)(位1558〜1603)が即位した。彼女は国王至上法を復活し、統一法で共通祈祷書の使用を義務づけ、儀礼・礼拝の形式を定め、イギリスを再び国教会にもどした。さらに1571年、39カ条の信仰箇条が定められた。これが現在でもイギリス国教会の教義の綱領の役目を果たしている。
ヘンリー8世(中央)の離婚問題に端を発したイギリス宗教改革では、彼が1534年に首長法を発布し、イギリス国教会を設立した。エドワード6世(ヘンリの右脇)が一般祈祷書を制定して教義が新教化された。のちにフェリペ2世となる皇太子と結婚したメアリー1世(ヘンリの左脇)がカトリックの復活をはかったが、エリザベス1世(ヘンリの右から2人目)が1559年に統一法を公布してイギリス国教会を確立した。
参考 山川 詳説世界史図録