オアシスの道(オアシス・ルート) 中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス都市を結び、東アジア・西アジア・南アジア間を最短距離で結ぶ交通路である。このルートの主たる輸送手段は、乾燥に強いラクダによる隊商(キャラヴァン)である。このルートのオアシス都市は、東西交渉の発展と拡大の中で興隆し、多くの都市国家が栄えた。
オアシスの道(オアシス・ルート)
オレンジ線がオアシスの道
中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス都市( オアシス都市国家)を結び、東アジア・西アジア・南アジア間を最短距離で結ぶ交通路である。このルートの主たる輸送手段は、乾燥に強いラクダによる隊商(キャラヴァン)である。長安から西行して黄河上流の蘭州を過ぎると砂漠が広がり、中国の最も西の端にある敦煌からは、タリム盆地を挟んで南北両道に分かれる。北道にはハミ・トゥルファン(高昌)・クチャ(亀茲)などがあり、南道にはローラン(楼蘭)・コータン(于闐)・ヤルカンド(莎車)などがある。こうして西行を続けるとパミール超えにかかる。パミール高原を超えて西トルキスタンへ入り、サマルカンド・ブラハからイラン高原・シリアへ、またパミール高原から北インド方面に行くことができる。このルートのオアシス都市は、東西交渉の発展と拡大の中で興隆し、多くの都市国家が栄えた。タラス河畔の戦いでは、アッバース朝と唐(王朝)の二大国が中央アジアの覇権を争った。この結果、唐(王朝)が敗北し、西域の経営から後退することとなる。
ヘレニズム文化やイラン系の文物は中国を経由して我が国の正倉院の宝物などにも影響が見られる。また中国とインドとの交通もこの道を通じて行われ、インドで生まれた大乗仏教がこの道を経由して中国に伝播した。
正倉院は、奈良東大寺の宝物倉。8世紀に建立されてから一度も災害にあわず、中国などではすでに失われてしまった当時の貴重な文物を伝えている。
養蚕の西方への伝播
養蚕の技術は、古代中国人の創始によるものであり、中国では絹を重要な輸出品としていた。このため中国では蚕の輸出を禁止していた。言い伝えによれば、コータンの王が蚕を得ようとして中国の公主(皇帝の娘)の降嫁を願い、攻守の髪に蚕を忍ばせて持ち出したという。こうして養蚕の技術は、次第に西方に伝播し、ビザンツ帝国では、大規模な絹織物工場がつくられるにいたっている。諸地域世界の交流年表
紀元 | 年 | 関連事項 |
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紀元前6世紀 | スキタイ人、南ロシアで活躍 | |
344 | アレクサンドロス3世の東方遠征開始 | |
209 | 冒頓単于即位、匈奴全盛 | |
紀元前2世紀 | 前漢の武帝(漢)即位、西域経営を推進 | |
139 | 張騫、大月氏に派遣される | |
紀元後 | 97 | 甘英、ローマ帝国に派遣される |
166 | 大秦国王安敦の使者、中国に至る | |
2世紀 | 仏教が中国(後漢)に伝わる | |
399 | 法顕(東晋の僧)、インドに赴く | |
401 | 鳩摩羅什、洛陽に至る | |
600 | 621 | 長安にゾロアスター教寺院建立 |
629 | 玄奘(唐の僧)、インドに赴く | |
635 | 唐に景教(ネストリウス派)伝来 | |
651頃 | 唐にイスラーム教伝来 | |
671 | 義浄(唐の僧)、インドに赴く | |
694 | 唐にマニ教伝来 | |
700 | 751 | タラス河畔の戦い、製紙法が西伝 |
1000 | 1096 | 十字軍(〜1291) |
1200 | 1219 | チンギス・カン、中央アジア遠征 |
1241 | ワールシュタットの戦い | |
1245 | プラノ・カルピ二、モンゴルへ出発 | |
1252 | ウィリアム・ルブルック、モンゴルへ出発 | |
1258 | フレグ、バグダードに入城 | |
1275 | マルコ・ポーロ、大都に至る | |
1294 | モンテ・コルヴィノ、大都で布教 | |
1300 | 1346 | イブン・バットゥータ、大都に至る |
1400 | 1405 | 鄭和の南海遠征(〜33) |