大月氏国 冒頓単于 スキタイと匈奴 漢の興起 月氏 バクトリア王国 パルティア 紀元前2世紀後半の世界地図
紀元前2世紀後半の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

スキタイと匈奴

世界史上初の騎馬遊牧民はイラン系のスキタイである。紀元前6世紀すぎると強大な王国をつくりあげ、アケメネス朝のダレイオス3世やアレクサンドロス3世とも戦い、これを破ったこともあった。平和な遊牧民は、スキタイから騎馬の技術を伝えられると、騎馬遊牧民へと成長し、代表的勢力となった匈奴は強大な遊牧国家を建設して中国の強敵となった。

スキタイと匈奴

内陸アジア世界の変遷
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

西方から内陸アジアに遊牧民が移り住んだのは、新石器時代以後である。その結果、モンゴル高原から南ロシアにかけての草原地帯は、平和な遊牧民の居住地となった。遊牧という生活様式と騎馬という習慣は、はじめから結びついていたものではなかった。馬に乗るには、手綱、はみ、くつわが少なくとも必要である。そしてこの騎馬の技術を採用し遊牧と結びつけた民族が、世界史上最初の騎馬遊牧民であるスキタイであった。

彼らは紀元前7世紀頃、南ロシア草原に現れたイラン系の民族である。紀元前6世紀をすぎると、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心に、強大な王国をつくりあげ、アケメネス朝のダレイオス3世やアレクサンドロス3世とも戦い、これを破ったこともあった。

スキタイ
スキタイの黄金の壺 壺の表面にはスキタイ人の風俗が描かれている。紀元前4世紀頃。高さ13センチ。Source: Wikipedia
スキタイ
壺の図を模写したもの ©Public Domain

髑髏どくろの盃と頭皮(スキタイ)

ギリシアのヘロドトスは、スキタイの風習について次のように記している。
「スキタイは、敵の将の首を取り、その頭蓋骨で酒盃をつくり、 外側に牛の皮を張り、さらに内部を金箔でおおった。」また、頭の皮でハンカチをつくり、その数を自慢し、なおその皮で衣服もつくったという。

多くの家畜を追って、季節的に一定の地域での移動をくりかえしていた平和な遊牧民は、スキタイから騎馬の技術を伝えられると、騎馬遊牧民へと成長していった。そして、彼らの行動は、紀元前4世紀ころに始まり、西方で活躍したサルマタイや東方で活躍した匈奴きょうどは最初の代表的勢力であり、とくに匈奴は強大な遊牧国家を建設して、中国の強敵となった。タリム盆地東部にいて、のち匈奴に圧迫されて移動した月氏げっし、天山山脈方面にいた烏孫うそんも有力な騎馬遊牧民であった。彼らが部族的統一を進め、有力な指導者に統率されて強大化したとき、農耕民にとってきわめて大きな脅威となった。

  • サルマタイ:紀元前5世紀から紀元後3〜4世紀にかけて、ドン川東の南ロシア草原に遊牧した民族。のちにスラヴ系に吸収される。スキタイと同類で、言語や生活様式が類似している。
  • 烏孫:トルコ系と考えられる遊牧民。漢代には天山地方で匈奴に服従した。月氏を追ってイリ地方に移る。
騎馬遊牧民の活動は、彼らの不安定な経済生活にその原因がある。騎馬遊牧民にとっては、衣食を自分たちの力だけで自給するには限界があり、農耕社会の生産物と交易することが必要であった。そのために農耕地帯の人々や商業、交易に従事する人々と物産の交換を求めた。それが平和的におこなわれないときには、武力に訴えた。騎馬遊牧民が優れた指導者をえて、遊牧国家を形成したとき、その武力による侵入は、大きな破壊や略奪となって現れた。こうした騎馬遊牧民の侵入に、激しく抵抗しつづけた代表的農耕社会が中国であった。中国は、長期にわたって草原地帯に対して大規模な武力遠征をくりかえした。
紀元前2世紀頃の内陸アジアの地図
紀元前2世紀頃の内陸アジアの地図 ©世界の歴史まっぷ

騎馬遊牧民と中国の対立の中にあって、「絹の道」(シルク・ロード)と後世名付けられた内陸アジアの東西交易路を結ぶオアシス地帯が、つねに両者の勢力争いの対象のひとつであった。
交易の利を騎馬遊牧民が確保するか、中国がこれを手に入れるかは、両者にとって重要な問題であった。そのため匈奴による西域進出がしばしばみられ、前漢の武帝(漢)は、パミールを越え、フェルガナ大宛だいえん)まで軍隊を送り、宣帝(漢)のときは、西域都護府をおいて西域を治めるようになった。 後漢の西域都護 班超の30年余にわたる西域経営はあまりにも有名である。
唐代以後は南海交易が盛んになり、東西交易は変化するが、騎馬遊牧民にとって、内陸アジアの交易路確保は重要な問題であり、この地域を勢力下におくことによって、騎馬遊牧民はますます強勢となり、中国を圧迫し、脅かし続けた。

トルコ系あるいはモンゴル系といわれる匈奴きょうどは、単于ぜんうと呼ばれる統率者(君主)のもとで強大化し、内陸アジア東部で最初の遊牧国家を建設した。

単于ぜんう:匈奴の君主の称号。鮮卑せんぴ柔然じゅうぜん可汗かがんと称し、のちに突厥とっけつ・ウイグルなどもこの称号を使用した。

戦国時代(中国)に、匈奴は中国の北辺に侵入して、燕、趙、秦、などの諸国を脅かすようになり、これらの諸国では国境線に防衛のための城壁(長城)が築かれた。また、匈奴はスキタイによって始められた騎馬戦術を東アジア世界にもたらし、歩兵と戦車で闘っていた漢人は、彼らをつうじて騎馬戦の技法を学んだのである。

武霊王(趙)、騎射を習う

春秋時代の諸侯は、四頭の馬に引かせた戦車を使用していたが、直接馬に乗って戦う騎馬戦術は開発されていなかった。戦国時代(中国)に入った紀元前4世紀末、西北部に位置して遊牧民との接触が深かった趙の武霊王は、臣下の反対を退けて、みずから胡服こふく(筒袖の上衣やズボンなど騎馬に適した遊牧民の服装)を着て乗馬し、騎射きしゃを練習して、率先して遊牧民の騎馬戦術を導入したという。こうして趙は軍事力の強化に成功し、他の諸国もこれにならったので、騎馬戦術は急速に普及していった。

秦の始皇帝は、将軍蒙恬もうてんを派遣して匈奴を討たせ、万里の長城を修築して匈奴の勢力をゴビ砂漠の北に追いやった。しかし、秦末に中国が混乱に陥ると、匈奴は冒頓単于ぼくとつぜんうのもとで強大化し、北はトルコ系の丁零ていれい堅昆けんこん(キルギスの祖)を服従させ、東は東胡(モンゴルまたはツングース系)を滅ぼして中国東北地方を領し、南は月氏を甘粛から西方へ駆逐して「シルク・ロード」の貿易の利をおさめ、さらにオルドスに進出して漢を圧迫するなど、全盛期を迎えた。

冒頓単于

冒頓単于ぼくとつぜんうの父は頭曼単于とうまんぜんうといったが、冒頓単于との仲はよくなかった。このため冒頓は機先を制して、自分の部下に、自分が鏑矢かぶらやで射たものをそのとおり射つように命じた。
冒頓は、まず自分の愛馬を射たが、部下の中には躊躇して射たない者があったので、ただちにその者を斬った。次に自分の妻を射たが、やはり動揺して射たない者があったので、容赦なくその者を斬った。こうして頭曼単于と狩りに出た冒頓は、隙きをみて父に鏑矢を放ったところ、部下たちは誰一人たがうことなく矢を浴びせかけ、たちまち頭曼単于を射殺したという。

匈奴

漢の宿敵となった匈奴について、司馬遷の『史記』は「馬・牛・羊などを飼い、水と草を求めて遷移し、城郭や定住の場所、耕田をもたない」と述べ、「ゆとりがあるうちは牧畜・狩猟を生業とするが、ゆとりがなくなれば侵攻・略奪に従事する。(肉は)壮健の者が旨い部分を食い、老人はその余りを食う。壮健を尊び、老弱をいやしむ」と、その騎馬遊牧民としての逞しく荒々しい風貌を伝えている。また、亡命・投降した漢人を重く用いるなど(高祖(漢)の功臣の盧綰ろわん、文帝(漢)の使節として来訪し単于の顧問となった中行説ちゅうこうえつ武帝(漢)時代の有名な李陵りりょうら)、外来の先進的要素を進んで摂取する気風にも富んでいたようである。モンゴルにあるノイン・ウラ遺跡は、紀元前後の匈奴の上層階級の墳墓であるが、その出土文物には、動物模様など南シベリアのスキタイ文化の影響が顕著であるほか、イラン様式のものもあり、また絹織物や漆器など大量の中国製品の出土は、匈奴に漢の文物がさかんに流入していたことを物語っている。

紀元前200年、漢の高祖劉邦は、匈奴の冒頓単于と白登山で闘って(白登山の戦い)大敗を喫し、以後、匈奴に対しては、毎年多額の物品を贈って和平の維持につとめた。
しかし、紀元前2世紀後半に武帝(漢)が即位すると、漢は匈奴に対する攻勢に転じ、将軍衛青えいせい霍去病かくきょへいらによる度重なる遠征の結果、匈奴は大きな打撃をうけてゴビ砂漠の北に追いやられた。
衰退に向かった匈奴は、紀元前56年ころ東西に分裂したが、東匈奴呼韓邪単于こかんやぜんうは漢に降って臣従関係を結ぶにいたり(紀元前51年)、キルギス草原に移動した西匈奴は前漢の西域都護甘延寿かんえんじゅの攻撃を受けて滅亡した。(紀元前36)元帝(漢)の宮女王昭君おうしょうくんが呼韓邪単于(東匈奴)に降嫁されたのは、この時期のことである。

王昭君秘話

王昭君おうしょうくんは南部の良家の娘で、選ばれて元帝(漢)の後宮に入ったが、数年帝に召されることがなかったことから、これを悲しみ恨み、紀元前33年みずから匈奴の呼韓邪単于こかんやぜんうに嫁ぐことを希望した。帝は召してみて、後宮一の美人であることを知ったが、約束をたがえることができず、ついに単于に与えた。昭君は呼韓邪単于との間に男子ひとりを生んだが、呼韓邪が死ぬと、呼韓邪と匈奴貴族の娘との間に生まれた男子が次の単于となり、匈奴の習慣に従いその妃となり2人の娘を生んだという。2人の娘は王莽のとき中国と匈奴との和親に活躍した。

王昭君が帝に召されなかったのは、美貌に自信のあった彼女が画家に贈り物をしなかったため、醜女しこめに描かれ、匈奴に嫁ぐ者に選ばれて降嫁されたのだとの物語も生まれた。

王莽おうもうによって前漢が倒され、中国が混乱に陥ると、匈奴(東匈奴)の動きは再び活発になり、後漢の光武帝(漢)の派遣した遠征軍をも撃退して、一時勢力を盛り返した。しかし48年、内紛によって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏した。彼らは万里の長城の南に移住し、以後、 魏王朝・普王朝にいたるまで中国北辺を守備する役割を果たすことになった(五胡のひとつに数えられる匈奴とは、この南匈奴の末裔である)。
一方、モンゴル高原を根拠地として後漢や南匈奴と対抗した北匈奴は、91年、将軍竇憲とうけんの率いる後漢の遠征軍に大敗して本拠地を失い、西方のイリ盆地方面へと移動したが、やがて衰退して消滅した。
なお、4世紀に南ロシア草原に出現し、ヨーロッパに侵入したフンは、この北匈奴の子孫が西方に移動したものとする説が有力である。

匈奴とフン族

匈奴とフン族の関係については、両者の名称の類似(匈奴 Hiungnu / フン Huns)や民族性の一致(フンは「低い身長、幅広の顔、細い目、扁平な鼻」といったモンゴロイド系の特徴をもっていたと伝えられ、その言語はアルタイ系であったと認められる)、時期的な整合性などから、フンは西走した北匈奴の後裔とする説が有力である。しかし、内陸アジアの匈奴の墳墓から出土した人骨は、モンゴロイド系のものとユーロポイド系(ヨーロッパ人種)のものが混在しており、内陸アジアに移動した匈奴は、すでにさまざまな民族と混血して、複雑な人種的構成をもつにいたっていたらしい。この点は、ハンガリーのフン族の墳墓から出土した人骨についても同様である。おそらく、モンゴロイド系の匈奴は、西方への移動の途中でユーロポイド系の諸民族と混合し、さらにフィン族、スラヴ族などの諸民族とも融合しつつ、4世紀に南ロシア草原に出現した(これをヴォルガ・フンと呼ぶ)のではないかと推定される。

紀元前2世紀後半の世界地図
紀元前2世紀後半の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

月氏

甘粛からタリム盆地東部にかけては、もともとイラン系といわれる月氏げっしが居住し、「絹の道(シルク・ロード)」の出入り口を押さえて交易の利をおさめていた。匈奴の冒頓単于は、この利益に目をつけ月氏を攻撃したため、月氏は西方のイリ盆地に移動した。しかし、トルコ系の烏孫うそんがイリ盆地に進出してきたため、月氏はさらに西トルキスタンのアム川流域に移動した。これを大月氏(前140頃〜1世紀)と呼ぶ。
こうして2世紀の半ばには、モンゴル高原から甘粛にかけて匈奴、イリ盆地に烏孫、アム川流域には大月氏という形勢が生まれた。

大月氏

匈奴、烏孫に追われて西遷した月氏は、アム川流域(バクトリア地方)に入って大月氏となったが、(なお、黄河上流地方に残留した月氏は小月氏と呼ばれた)、このことを漢代の史書は「大月氏が大夏を征服して、この地に五翕侯きゅうこう(小国)をおいた」と伝える。ストラボンの『地理誌』には、紀元前2世紀の中ごろギリシア系のバクトリア王国が「アシオイ、パシアノイ、トハロイ、サカラウロイ」の4民族によって滅ぼされたことが記されているが、「大夏」はこの「トハロイ」の音訳とする説が有力である。これによれば、月氏はトハロイ(トハラ)を征服したことになるが、一方、月氏を「アシオイ」に当てはめる説もある。また五翕侯きゅうこうについても、これを征服者月氏の諸侯とする説と、月氏に服従した先住勢力(大夏)とする説があり、結論をみるにいたっていない。この五翕侯きゅうこうのひとつに貴霜(クシャン)翕侯があり、やがて他の4翕侯を倒してバクトリア地方を統一するが、これがクシャーナ朝である。