バクトリアとパルティア バクトリアは、セレウコス朝の支配が低下するのにともない、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立してバクトリア王国(紀元前255年〜紀元前139年)をたてた。マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。 カスピ海南東のパルティア地方では、イラン系遊牧民がパルニ属の族長・アルサケスに率いられてパルティア王国(アルサケス朝 紀元前248/247年〜紀元後224年)をたてた。2世紀の初頭にはトラヤヌス帝の率いるローマ帝国軍がクテシフォンを占領して弱体化し、224年、ササン朝によって滅ぼされた。
バクトリアとパルティア

属州時代
バクトリア
トハラ人はスキタイ系遊牧民の一派。バクトリア王国を倒したが、紀元前1世紀には大月氏に支配された。中国史料に現れる大夏ではないかといわれる。
パルティア
中国ではこのパルティア王国を、建国の祖アルサケスの名にちなんで「安息」と呼んだ。
紀元前2世紀半ばのミトラダテス1世のときに国力はさかんとなり、セレウコス朝の東の都・ティグリス河畔のセレウキアを陥れると、その対岸のクテシフォンに冬営地を設けた。各地を転々としていたパルティアの首都は、やがてこのクテシフォンに定まった。
その領域は東方ではバクトリア・大月氏・クシャーナ朝と国境を接し、西はユーフラテス川にいたる広大なものであった。この領土を支配するためにパルティアの王たちは、アケメネス朝の統治組織を継承して中央集権制を確立しようと努めた。
アケメネス朝の王にならって「諸王の王」と称し、属州には有力家系の知事を配置し、交通路の整備にも力を注いだ。しかしパルティア国家は、有力家系の連合体という性格を最期まで脱することができず、そのため国内の地方勢力の台頭を抑えることもできなかった。他方、征服者であり支配者である遊牧民と、被征服者である先住農耕民との融合は徐々に進み、文化的には征服者が被征服者の影響をうけるという現象が起こった。
内陸アジアの隊商路だけでなく、海上ルートの要所であるペルシア湾をも押さえたパルティアは、東西交易の利益を独占しておおいに繁栄した。後漢の班超がローマ(大秦国)とつうじようとして甘英を派遣した時、パルティア(安息)がこれを妨害したのは、この利益が侵されるのを恐れたからであった。西に向かう商品は絹・香料・象牙・宝石などであり、ローマからは青銅やガラスの工芸品・ブドウ酒・オリーブ油・金をうけとった。
パルティアにとって最大の敵となったのは、東方進出をはかるローマであった。紀元前1世紀にセレウコス朝を倒したローマのさらなる東進を阻止するため、パルティアもシリアに進出した。紀元前53年には共和制ローマの三頭政治家のひとりマルクス・リキニウス・クラッススを敗死させた。
しかし2世紀の初頭にはトラヤヌス帝(ネルウァ=アントニヌス朝)の率いるローマ軍がクテシフォンを占領し、ペルシア湾頭にまで達した(パルティア戦争)。その後両国間には一進一退の小競り合いが続いたが、パルティアの国力はしだいに衰退し、ついに224年、ササン朝によって滅ぼされた。