トリアノン条約 ヌイイ条約 サン=ジェルマン条約 パリ講和会議とヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

パリ講和会議 とヴェルサイユ条約

パリ講和会議 ではウィルソンが提唱した「十四カ条」が基本原則とされたが、英・仏は植民地や勢力圏の利害を優先し、ドイツに対して制裁的態度をとった。東欧には民族自決の原則が適用されて新興国家が誕生したが、アジア・アフリカ諸地域の独立はまったく無視された。

パリ講和会議 とヴェルサイユ条約

1919年1月、パリで連合国 27カ国代表による講和会議が開催された。会議関係者総数1万人におよぶ史上最大規模の国際会議では、軍人ではなく政治家が主役となり、各国の議会の意向や世論、国民の動向が大きな影響を与えた点でも画期的であった。講和の枠組みはアメリカウィルソン大統領 Wilson (1856〜1924)が1918年1月に提案した十四カ条とされ 、また米・英・仏・イタリアと新たに指導的大国と認められた日本の五大国が全般的主導権をもつことを認められた。とはいえ、日本はヨーロッパ内の諸問題に切実な関心がなく、またイタリアのオルランド首相 Orlando (1860〜1952)も領土要求がれられないとして会議を一時離脱するなどの行動をとったため、結局、米のウィルソン、英のロイド=ジョージ Lloyd George (1863〜1945)、仏のクレマンソー Clemenceau (1841〜1929)の三首脳間の協議が決定的な重みをもつことになった。この3国はロシア革命の波及阻止などでは共同行動をとったが、フランスが自国の安全保障問題にこだわり、イギリスは戦前の地位への復帰を求めて国際経済の再建を重視し、アメリカは十四カ条遵守に固執するなど、それぞれの目的や思惑に違いがあった。

ウィルソンの十四カ条

  1. 秘密外交の廃止
  2. 海洋の自由
  3. 経済障壁の撤廃と通商条件の対等化
  4. 軍備縮小
  5. 植民地再配分要求の公正な調整
  6. 全ロシア領からの撤兵
  7. ベルギーからの撤兵とベルギーの主権回復
  8. 全フランス領から撤兵とアルザス・ロレーヌのフランスへの返還
  9. 民族居住線に沿ったイタリア国境の修正
  10. オーストリア=ハンガリー内諸民族に対する自立的発展の機会の保証
  11. ルーマニア・セルビア・モンテネグロからの撤兵、バルカン諸国の政治・経済的自立と領土保全への国際的保証
  12. オスマン帝国内のトルコ領土の保全、他諸民族の自立的発展の保証
  13. 外海への自由な交通路を与えられた独立ポーランド国家の樹立
  14. すべての国家の政治的独立と領土保全を相互に保障する国際組織の設立
イギリスは第2条の海洋の自由については留保した。

会議ではまず国際連盟規約が審議され、ついで対独講和の具体的内容が順次検討された。しかし、合意達成は容易ではなく、4月初めにはウィルソン大統領が交渉を見限って帰国を準備するまでになった。こうした連合国 内部の確執から、ドイツ軍も交渉の席に着かせるという当初の予定は実現されなかった。4月中旬、ようやく内容がまとまり、5月ドイツ代表団に示されたが、実質的な交渉はほとんどないまま、6月半ば連合国 側は最後通告の形でドイツに受諾をせまった。ドイツは抗議したもののほかに選択肢はなく、6月28日ヴェルサイユ宮殿鏡の間で講和条約(ヴェルサイユ条約 Versailles )に調印した。

条約の第1部は、その後の他同盟国との講和条約と同様、26条からなる国際連盟規約であり、2部以下に新国境・領土割譲・軍備・賠償などに関する諸条項がならんでいた。ドイツは全植民地を国際連盟に引き渡し、西部国境側ではアルザス・ロレーヌ Alsace-Lorraine をフランスに返還して、さらに国境地域の一部をベルギーに割譲した。ザール地方は15年間国際連盟管理下におかれ、ライン左岸も15年間の連合国 側の保障占領を認め、その占領費も負担させたれた。

東部国境側では、ヴェストプロイセン州などを再興させたポーランド国家の外海への通行路として割譲し(ポーランド回廊)、ダンツィヒ市の国際管理への移行を認めた。ザール地方、オストプロイセンの一部、シュレジエン、北部シュレスヴィヒ地域では住民投票による帰属決定にゆだねられ、オーストリアとの合併は禁止された。軍備面では、徴兵制の廃止、陸軍兵力の10万人以下への制限、重砲・航空機・戦車の保有禁止、また海軍兵力は1万6500人、潜水艦の保有禁止、新造艦は1万トン以下に限定、などの制約を受けた。

賠償支払いについてはドイツ側も最初からその用意があることを認めており、焦点はその対象範囲と総額にあった。英・仏の世論は広範な賠償支払いを期待し、とくにフランスはドイツの最強国化への警戒という政治的意図もあって高額な賠償を要求した。賠償額がドイツの支払い能力を超えることを懸念したアメリカは、開戦責任をドイツと同盟側に負わせたうえで(231条)、民間人の損害と中立が保障されていたベルギーの全戦費に対象を限定させようとした。戦争責任条項が講和条約の基本部分ではなく、賠償関係の部に組み込まれているのはそのためである。賠償総額はこの時点でまだ確定することはできず、その後の協議にゆだねられた。

条約によって、ドイツは戦前と比較して、国土の13.5%、人口の約1割を、さらに鉱物資源の豊富なオーバーシュレジェンを割譲したこともあって、石炭・すず生産量の4分の3、ジャガイモ・ライ麦生産量の2割近くを失った。

ドイツ側は条約の個々の内容にもまして、交渉無しの一方的通告、戦争責任条項、さらにヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) ( ヴィルヘルム2世と「黄禍論」)など主要責任者の国際法廷への訴追など、大国としてのドイツの名誉や体面にかかわる条項、それまでの国際慣例にはなかった新規項目を中心に批判した。賠償額については、すでに当時から連合国 内部でもそれが課題になることに懸念があり、それらを含めてヴェルサイユ条約はドイツに対して過酷であるとする見方は長い間定説となっていた。しかし近年、これはドイツ側の主張に引きずられて条約のマイナス面だけを強調し、たとえばドイツの国土が占領されず、領土も基本部分では保全され、また経済構造も手つかずで残され、さらに軍事制限も国際的な軍縮の先取りと位置づけられていることなどが十分考慮されていないと批判されるようになった。現在では当時の状況を考慮に入れれば比較的寛大で、問題の多くは条約自体より、むしろその後の対応にあったとする見方が有力になっている。

他の同盟側の敗戦国との講和条約もパリ周辺の宮殿・城館で調印され、ほぼヴェルサイユ条約に準じた内容となった。対オーストリア講和条約(サン=ジェルマン条約 St.Germain )は1919年9月に結ばれ、オーストリアは戦前とくらべて面積・人口ともに4分の1に縮小され、ドイツ人のみの小共和国となった。ブルガリアとは19年11月ヌイイ条約 Neuilly が、ハンガリーとは1920年6月トリアノン条約 Trianon がそれぞれ調印され、ハンガリーは歴史的領土と人口の過半を失った。オスマン帝国の分割を内容とするセーヴル講和条約 Sèvres は1920年8月に調印された。

十四カ条でも取り上げられたロシア・オーストリア=ハンガリー・オスマン3帝国内の諸民族の自治は、必ずしも各民族の国家的独立を意味していなかった。しかし民族自治権は一民族一国家という単純化したスローガンとして理解され、大戦末期から、バルト地域からバルカン半島にいたる広範な中欧地域で、それぞれの新国家が建設されていた。連合国 もそうした動きを追認せざるをえず、再興されたポーランドをはじめとして、バルト地域からバルカン半島にいたる中・東欧地域で8カ国の新興国家 ❶ が成立した。これらの国家は実際には国内になお少数民族をかかえる複雑な民族構成をもち、一方、国外にはそれぞれかなりの数の自民族を残していた。そのため連合国 は、新たな民族紛争の発生を懸念して、新興諸国に少数民族の権利保護を義務付ける条約を結ばせた。

フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(ユーゴスラヴィア)。

ドイツの旧植民地とオスマン帝国内の非トルコ人地域 については、国際連盟から先進国(戦勝国)に統治を委任する形式がとられ、旧ドイツ領はおもにイギリス連邦諸国と日本の、またオスマン帝国内のイラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリアはフランスの委任統治下におかれた。民族自決権や国家的独立がヨーロッパに限定され、旧ドイツ植民地が事実上戦勝大国間で再分配されたことは、アジア・アフリカの植民地の人々を失望させた。

アラビア半島のイブン=サウードの独立は認められた。