ビスマルク外交
仏の孤立化をはかるため、英との親善関係を維持しつつ、伊・墺・露との間でさまざまな同盟や条約を結び、フランスと諸列国(特に露)が提携しないようにつとめた。この状況を維持すべく、ベルリン会議(1878)やベルリン=コンゴ会議(1884〜85)など列国間の調停をはかった。
ビスマルク外交
ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心があった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。
そしてビスマルクはロシアとオーストリアを誘って三帝同盟 League of the Three Emperors を1873年10月締結し、フランスの一層の孤立化をはかった。しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義 Pan-Slavism とパン=ゲルマン主義 Pan-Germanism のもと激しく対立していた(バルカン問題)。78年(6〜7月)のベルリン会議でビスマルクが「誠実なる仲介人」と称して関係国の利害を調整したが、決定にロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊した。
ドイツは翌79年10月、オーストリアとの間に独墺同盟を結成し、再びバルカンにおけるロシア・オーストリア間の利害を調整して81年三帝同盟を復活させた。さらにチュニジア問題でフランスと対立したイタリアを誘ってドイツ・イタリア・オーストリアによる三国同盟(1882〜1915)を結んだが、ロシア・オーストリア間の対立は結局解消できず、87年三帝同盟が消滅した。ドイツは3国間の同盟をあきらめ、ロシアとの間に再保障条約(1887年6月17日)①を結んだ。これは両国の一方が他国から攻撃されたときは中立を守ることを約したものである。こうした複雑な同盟をビスマルク体制と呼び、彼の在任中、フランスは国際的孤立状態から脱却できなかった。