そしてビスマルクはロシアとオーストリアを誘って三帝同盟 League of the Three Emperors を1873年10月締結し、フランスの一層の孤立化をはかった。しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義 Pan-Slavism とパン=ゲルマン主義 Pan-Germanism のもと激しく対立していた(バルカン問題)。78年(6〜7月)のベルリン会議でビスマルクが「誠実なる仲介人」と称して関係国の利害を調整したが、決定にロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊した。
ドイツは翌79年10月、オーストリアとの間に独墺同盟を結成し、再びバルカンにおけるロシア・オーストリア間の利害を調整して81年三帝同盟を復活させた。さらにチュニジア問題でフランスと対立したイタリアを誘ってドイツ・イタリア・オーストリアによる三国同盟(1882〜1915)を結んだが、ロシア・オーストリア間の対立は結局解消できず、87年三帝同盟が消滅した。ドイツは3国間の同盟をあきらめ、ロシアとの間に再保障条約(1887年6月17日)①を結んだ。これは両国の一方が他国から攻撃されたときは中立を守ることを約したものである。こうした複雑な同盟をビスマルク体制と呼び、彼の在任中、フランスは国際的孤立状態から脱却できなかった。
① 二重保障条約・再保険条約ともいう。この条約はオーストリアとロシアの対立のなかで、オーストリアと同盟関係を維持しつつ、しかもロシアを結びつけるという意味で再保障の名がある。