フランス第二帝政と第三共和政
第二帝政:1852年国民投票によりナポレオン3世即位。70年普仏戦争で捕虜となる
第三共和制:1870年パリに臨時国防政府成立。75年第三共和国憲法成立
フランス第二帝政と第三共和政
1851年クーデタをおこしたルイ=ナポレオンは、翌52年国民投票によって皇帝に即位し(ナポレオン3世 位1852〜70)、第二帝政が始まったが、労働者・資本家・農民の3勢力の均衡を絶えず考慮しなければならなかった。最初、専制帝政(権威帝政 1852〜60)と呼ばれる皇帝権力が強いものであったが、イタリア統一戦争への介入やイギリスとの通商条約締結をきっかけとして自由主義運動が高揚したため、ナポレオン3世は議会に対して譲歩するようになり、元老院や立法院に質問権を与えたり、労働者の団結権を認めたり、集会法や出版法を緩和したりした(自由帝政 1860〜70)。しかし国民の体制批判は高まる一方で、69年の選挙で反対派が大幅に進出したので、70年新憲法が制定され議会帝政が成立した。
外交面ではきわめて活発な対外侵略をおこなった。まず1853年クリミア戦争に参加し、これに勝利して皇帝の威信を高めた。さらに56年から宣教師殺害事件をきっかけにイギリスと共同して清朝を攻撃したアロー戦争をおこし、越南国を58年攻撃して(インドシナ出兵)、62年サイゴン条約を結び、コーチシナ東部を確保してさらに北上した。59年カヴールとの密約にもとづいてイタリア統一戦争に介入し、途中でオーストリアと単独で講和するなど自国の利害を優先する外交方針をとった。61年からはメキシコ遠征をおこなったが、現地の反発や南北戦争を集結させたアメリカの抗議によって、干渉を中止せざるをえなくなり、皇帝の権威は失墜した。このため、スペイン王位継承問題でプロイセンと対決したときは、強硬姿勢をとらざるをえなかったためプロイセン=フランス戦争に突入し、スダン要塞で捕虜となって第二帝政は崩壊した。
パリではただちにプロイセンとの戦闘継続をめざして、トロシュ Trochu (1815〜96)を首班とする国民防衛政府(国防政府)が結成され、第三共和政が成立した。パリはプロイセン軍に包囲されたが、内相ガンベッタ Gambetta (1838〜82)は気球にのって脱出し、地方において国民軍を組織してプロイセン軍に抵抗した。しかしティエール Thiers (1797〜1877)らの穏健派は、ボルドーにおける国民議会を背景にプロイセンとの妥協をはかり、71年1月ドイツ軍に降伏し、2月ヴェルサイユにおいて仮の講和条約を結んだ。
これに強く反発したのがパリ市民であった。彼らは、名もない市民が参加した世界史上最初の労働者や市民からなる自治政府であるコミューン Commune を3月結成した。コミューン組織は一時期フランスの各都市で生まれたが、連絡の不徹底で短期間に消滅した。パリ=コミューンはドイツ軍の支援をうけたティエールらの政府軍に善戦したが、しだいに追い詰められ、ペール=ラシェーズ墓地での抵抗と殺戮を最後に5月崩壊した。そしてティエールが9月大統領に就任し、75年第三共和国憲法が制定されて、第三共和政が確立した。
ナポレオン3世は1855年、イギリスに続いて万国博覧会を開催したが、その2年前の53年オスマン男爵 Baron Haussmann (1809〜91)に命じてパリの改造をおこなった。道路は整備され広くなり、建物の高さ制限も加えられてパリは花の都にふさわしいものになった。
ボンマルシェ百貨店が世界で初めて開店して、定価によるプレタ=ポルテ(既製服)の販売をおこない、ブルジョワ階級はステイタスとしての馬車を買い求め、街の各地にはガス灯が設置されて暗闇が克服され、都市住民が夜間に外出して夜の生活を楽しむにいたった。かつて祝祭行事や宮廷内部に限定されていた夜の娯楽は、ブルジョワ階級の手によってより広い基盤を獲得し、オペラなどの娯楽は深夜まで演じられ、百貨店や商店はショーウインドーを光で飾ってその商品の価値をいっそう魅力的にしようと試みた。
さらに、19世紀の細菌学の発達によって伝染病の発生が細菌と関連することが明らかになり、伝染病対策が講じられるようになった。水道の公営化を推し進めて安全な水を大量にかつ安定的に供給する手段が講じられ、大規模な下水道設備を編み目のように張りめぐらしたうえで、身体の清潔に対する観念を著しく変化させた。18世紀末までのヨーロッパでは入浴を常時おこなう習慣はなく、動物性の香水や白粉などによってその体臭をカバーしていたが、入浴によって清潔を維持することが伝染病の発生を防ぐ有効な手段であることが、自由と平等の観念の普及とともに広く人々にうけいれられるようになった。こうして清潔が奨励され、香水は動物性のものから植物性のものに変化していった。労働者などの貧しい階級は依然として清潔にはほど遠い環境にあったが、ブルジョワ階級の生活規範をモデルとする生活様式がファッションも含め広く社会に拡大され、人間の技術や発明によって自然環境を全面的に支配できるという信念、つまり進歩思想が定着し、ヨーロッパは新時代に入った。そして便利で快適な都市生活を可能とする近代都市が成立した。
エッフェル
エッフェル Eiffel (1832〜1923)は建築技師として仕事を始め、橋造りの天才であった。現在フランスをはじめヨーロッパ各地に、彼の設計になる鉄製の橋梁が残っている。ニューヨークのシンボルである自由の女神(彫刻そのものは F.A.バルトルディ Bartholdi )の骨組み設計をおこなったのも彼であり、その名声を背景に1889年の万国博覧会開催のためにエッフェル塔を建設した。この天才技術者でも失敗を経験することもあった。それはレセップスのパナマ運河建設と関係して水門建設計画を気軽に請け負い、会社の破産によってその責任が追及されていったん有罪判決を受けたことであった。結局彼は無罪とされ、晩年はスポーツを適度に楽しみながら91歳の生涯を終えた。