新と後漢 後漢 秦・漢帝国と世界 漢(王朝) ローマ帝国へ 匈奴 2世紀の世界地図
2世紀の世界地図 ©世界の歴史まっぷ
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ローマ帝国へ オクタウィウスは内乱の一世紀の戦後処理がすむと、非常時のためゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、元老院は彼に最高軍司令官の称号を与え、半分の属州の総督命令権をも与えた。そして紀元前27年、彼に「アウグストゥス(尊厳者)」という称号をも付与した。彼は軍事・行政・司法の全分野において国政をひきうけ、属州からの税収を自らのものとした。ここに共和政は完全に終わり、帝政が始まるが、彼は外面的には共和政を尊重し、独裁官とはならず、君主や王の称号も求めなかった。

ローマ帝国へ

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オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ
オクタウィアヌスは内乱の一世紀の戦争後の処理がすむと、非常時のためゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、元老院は彼に最高軍司令官の称号を与え、半分の属州の総督命令権をも与えた。そして紀元前27年、彼に「アウグストゥス(尊厳者)」という神聖な意味をもつ称号をも付与した。彼は以来「インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス(神(カエサル)の子)」と名乗り、共和政期の最高の政務官職のほとんどを、一部はその職権のかたちで一手におさめ、軍事・行政・司法の全分野において国政をひきうけ、属州からの税収を自らのものとした。 ここに共和政は完全に終わり、帝政が始まるが、彼は外面的には共和政を尊重し、独裁官とはならず、君主や王の称号も求めなかった。また彼は護民官の職権を重要視したが、それは平民の権利を守る伝統をもつこの職のイメージを利用したからだと思われる。 彼自身「余は権威において万人に勝ったが、職権においては同僚官のだれもしのぎはしなかった」と語っていのである。
アウグストゥスが死に際に際して各地に掲示させた彼の『業績録』の言葉。
民会にも選挙や立法をおこなわせ、元老院にも出席して意見を聞いた。彼は以前から有力議員が用いていた「第一人者(プリンケプス)」という言葉を自分の地位をさして使うことを好んだので、彼の支配体制を「元首政(プリンキパトゥス)」と呼ぶ。彼はローマ市の美化に努め、市民に金品や穀物を与え、豪華な娯楽も催して市民の人気をえることを怠らなかった。アウグストゥスが40年以上の統治期間に恵まれたことも、その間に元首制を完全に確立させるに十分な条件となった。 アウグストゥスの元首の地位は養子のティベリウスに受け継がれ、共和政は2度と復活しなかった。ネロ帝のような暴君も現れたが、五賢帝の時代末期にいたるまで帝国は平和を享受し(ローマの平和(パクス・ローマ))、その繁栄は絶頂に達した。
五賢帝:ネルウァ帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝。
ネルウァ=アントニヌス朝トラヤヌス(ローマ皇帝)のときにドナウ川の向こう岸のダキアを属州として、帝国の領土は最大となった。
ローマの領土拡大地図
ローマの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ
北はブリタニアから南はサハラ砂漠北端、東はメソポタミアから西は大西洋岸までの、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸にまたがり、地中海を内海、「我らの海」とする大帝国で、総人口は5000万から6000万であったと推定される。
そのうちローマ市民は1世紀にはまだ1〜2割だった。首都ローマはとびぬけて人口が多く、100万〜120万に達していたといわれる。
陸海の交通の安全が確保され、ローマ道は帝国中に張り巡らされ、属州には無数の都市が繁栄し、また新たに建設された。それらはローマ風の都市になっていき、ギリシア、ローマの融合した都市的文化がゆきわたった。 東方ではギリシア語が広く使われていたが、帝国政府はラテン語の普及に努めた。当時、帝国の東のはしから西のはしへ行く旅人はこの2つの言語を使えれば不自由せずに、またいたるところで同じような都市の生活を味わいながら旅行できただろうといわれている。帝国全体に経済活動がさかんになり、ことに属州の農業生産や手工業が活発になり、イタリアへ輸出するようになった。
スペインのオリーヴ油・鉱産物・シリアのガラス製品、ガリアの陶器など。
2世紀の世界地図
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アラビア、インド、中国、東南アジアとの季節風貿易や隊商貿易が利用され、東方の貴金属、香辛料、絹、珍しい野獣などが地中海世界にもたらされた。
166年ころ、中国の後漢に大秦王安敦の使者が訪れたという中国の記録があり、それはマルクス・アウレリウス・アントニヌスをさすと思われるが、皇帝が直接遣わした使者であったかどうかは疑問とされる。
豊かになった市民は私財を投じて自分たちの都市を美化することに努めた。リヨン、トリアー、ウィーンパリロンドンなどは、この時代に軍団駐屯地などからローマ風の都市に成長していったのである。 帝政期の社会を見てみると帝国住民はローマ市民権者属州民奴隷に分かれ、市民権は広く属州民や解放奴隷に与えられていき、212年のセウェルス朝カラカラ(ローマ皇帝)の勅令により、帝国全土の自由民に与えられた。すでに1世紀後半から民会は機能しなくなり、執政官は皇帝の指名するところとなって、ローマの都市国家的性格は完全に失われた。市民の間にも、それにともなって財産額を基準とする明瞭な身分の差ができあがっていった。 元老院議員は世襲となり、属州総督や将軍、名誉的な高級官職を担った。ガリア、ギリシア、アフリカなどで属州出身の議員がしだいに増加した。 騎士階級は商人として、そして帝政期にめだってきた皇帝に直接仕える官僚として上級身分を構成した。 各都市の富裕な人々も、都市の評議会員として特権身分とされた。その他の市民は平民と呼ばれる被支配民に等しかった。このような階層的な社会の頂点に皇帝がおり、側近の元老院議員や騎士、解放奴隷を用いて帝国のすべての権力を握っていた。 アウグストゥス以後の皇帝も多くは死後神格化され、生きている皇帝の礼拝も推進されて、皇帝の権威と権力はたゆみなく強化されていった。 ネルウァ=アントニヌス朝のハドリアヌス(ローマ皇帝)のときから帝国は守勢に転じ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(ローマ皇帝)の治世の末にはゲルマン人の侵入、パルティアとの戦いと東方からの疫病、帝国財政の窮乏化などの不穏な状況が現れ、彼の死後には政治は乱れ、皇帝位をめぐる争いが激化した。 アフリカ出身の軍人セプティミウス・セウェルス(ローマ皇帝)は経済統制をおこない、軍事力を強めて帝国をたてなおしたが、皇帝は次第にローマやイタリアとはことなる慣習や宗教に傾くようになった。
セウェルス家のヘリオガバルス(ローマ皇帝)は自身シリアの太陽神の神官で、自分の神をローマに持ち込もうとした。
3世紀半ばからは各地の軍団がそれぞれ皇帝をたてて抗争する事態となった(軍人皇帝時代 235〜284)軍事力偏重によって都市が圧迫を受け、ことに西方ではゲルマン人のたびかさなる侵入で荒廃が進んだ。東方でも226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、ウァレリアヌス(ローマ皇帝)はそのために捕虜とされるありさまだった。まさに帝国は「3世紀の危機」を体験していたのである。