中国革命と帝政運動
中国革命と帝政運動
清朝が倒れたのち、協定に従って、袁世凱 が臨時大総統に就任した。(1912年3月)。孫文 ら革命派は、独裁を企図する袁の野心を警戒し、袁の就任前に暫定憲法としての性格をもつ「臨時約法」を成立させた ❶ 。これは3月に袁世凱政府によって公布されたが、袁世凱 は首都と定められた南京に赴かず、みずからの根拠地である北京に居を定めるなど、早くも「臨時約法」を無視する姿勢を明らかにしはじめた。これに対し革命派では、議会で多数派を占めて政権の奪回をはかる方針を採用し、中国同盟会を中心に議会政党としての国民党を結成した。この結果、1912年末から13年初頭におこなわれた中国最初の国会選挙で、国民党は圧勝をおさめて第一党となった。これをみた袁世凱は帝国主義列強から巨額の借款をうけて自己の資金源とする一方、国民党指導者の宋教仁の暗殺(1913年3月)など、強引な手段で国民党を弾圧した。
こうした袁世凱 の反動政治に対し、1913年7月、国民党側は準備不足のまま第二革命と呼ばれる武装蜂起をおこした。袁世凱は圧倒的な兵力をもってこれを鎮圧すると、10月、正式大統領に就任し、国民党の解散や大総統の権限を大幅に拡大した「新約法」の制定などを強行した。第二革命に敗れた革命派指導者は、海外への亡命を余儀なくされ、孫文 らは東京で新たに中華革命党を結成して、革命運動の再建をめざした。
第二革命後、強権を握った袁世凱 は、さらに独裁体制を完成させるべく皇帝の位につく野望を抱き、帝政運動を推進していった。1915年12月、袁世凱は翌年からの帝政復活を宣言したが、時代に逆行するこの強引な企てには、ただちに内外からの猛反発が巻きおこった。すなわち、帝国主義列強は中国のこれ以上の政情混乱を望まず、帝政に反対する声明を発表し、国内においても、雲南を皮切りに各地で反袁世凱勢力の武装蜂起が相ついだ。これを第三革命という。帝政に対する予想外の反対に直面した袁世凱は、1916年3月、帝政取り消しの表明を余儀なくされ、6月には失意のうちに病死した。
袁世凱の死後、中国は、北京政府の実権を握った旧袁世凱配下の有力な将軍(北洋軍閥)をはじめ、各地に軍人勢力が分立割拠する情勢となった。弱体な革命勢力を押しのけて、実力によって地方を支配したこれらの軍人勢力を軍閥と呼ぶ。北京政府には、もはや全国を統一的に支配する力も権威もなく、各地の軍閥は、それぞれ帝国主義列強と結んで支援をうけ、十数年にわたってたがいに混戦をくりかえし、中国は事実上の分裂状態に陥っていった。中華民国の誕生は清朝の皇帝支配を終わらせたが、今度はこれにかわる軍閥の野蛮な支配と戦乱が中国民衆を苦しめつづけたのである。