五・四運動
五・四運動の拡大(天安門広場/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

五・四運動

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五・四運動

1919年、中国はパリ講和会議で、第一次世界大戦中に日本から強要された二十一カ条要求の撤廃要求が拒否されると、5月4日、北京の学生数千人がおこなった抗議デモが全国に拡大。政府はヴェルサイユ条約の調印拒否を声明し、逮捕した学生の釈放、親日派高官の罷免など大幅な譲歩をおこなって収拾した。

五・四運動

1919年1月開催されたパリ講和会議 ( パリ講和会議とヴェルサイユ条約)に、中国は代表を送って、第一次世界大戦中に日本から強要された二十一カ条要求 の撤廃や、山東の旧ドイツ権益の返還などを提訴したが、日本をはじめとする主要国によって認められなかった。この報道が伝わると、北京大学の学生を中心とする各大学の学生数千人は、この年の5月4日、北京の天安門前に集合して抗議集会を開き、ついでデモ行進に入り、外国大使館などに抗議文を手渡した。また、一部の学生は、親日派の売国奴的高官として憤激の対象となっていた曹汝霖そうじょりん(1877〜1966)のやしきを襲撃し、このため警察力の介入がおこり、30余名の学生が逮捕された。

この結果、事件はさらに拡大し、学生連合会が結成され、日本製品のボイコット(日貨排斥)をはじめ、激しい抗議運動を展開するにいたった。6月に入ると、学生運動に同調して労働者・商人層も抗議のストライキをおこなうにいたり、大規模な愛国運動に発展した。五・四運動ごしうんどう は、基本的には排日運動から発展し、反帝国主義・反封建主義・軍閥政府打倒運動にまで高まっていったとみることができる 。政府は運動の拡大を阻止することができず、ヴェルサイユ条約の調印を拒否することを声明し、また学生の釈放や親日派の高官を罷免するなど、大幅な譲歩をおこなって、ようやく事態を収拾するにいたった。

五・四運動
五・四運動の拡大(天安門広場/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

北京で学生たちは数十人のグループをつくり、街頭で「日貨排斥」(日本商品の不買運動)を演説してまわった。たちまちこの運動は中国全土の主要都市に広がった。

五・四運動は民族大衆の団結による行動の力を示したものであり、これ以後の中国の革命運動の展開に多大な影響を与えた。
第一次世界大戦と東アジア
中国革命の進展流れ図©世界の歴史まっぷ
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