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宋の南遷と金の華北支配

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宋の南遷と金の華北支配

北宋は、燕雲十六州の奪回をはかり、金と結んで遼を挟撃して1125年に遼を滅ぼした。しかし、戦費の支払いなどをめぐって北宋は背信行為を重ね、怒った金は大軍を南下させて北宋の都開封を占領。上皇徽宗や皇帝欽宗をはじめとする皇族や重臣3千余人を捕らえて北方に連れ去り、ここに北宋は滅んだ(靖康の変)。

宋の南遷と金の華北支配

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

北宋は、燕雲十六州の奪回をはかり、新興の金朝と同盟を結んで遼朝を挟撃し、1125年、これを滅ぼした。しかし、戦費の支払いなどをめぐって北宋は背信行為を重ね、これに怒った金朝は大軍を南下させて北宋の都開封を攻囲した。

1114年、阿骨打あぐだ寧江州の戦いねいこうしゅうのたたかいで遼軍を敗北させた。

1126年、金朝はさらなる北宋の違約を責めて開封を占領し、翌1127年、上皇徽宗きそうや皇帝欽宗(宋)をはじめとする皇族や重臣3千余人を捕らえて北方に連れ去り、ここに北宋は滅んだ(靖康の変せいこうのへん)。

風流天子徽宗と花石網

宋の南遷と金の華北支配
「桃鳩図」徽宗画 ©Public Domain

実質的には北宋の最後の皇帝となった徽宗きそうは、新法を復活して財政的にはしばしの安定状態をつくりだした。彼は詩文にもすぐれ、書画においても、山水画や有名な「桃鳩図とうきゅうず」を描いて名手の誉れ高く、史上まれにみる風流天子であった。こうした徽宗の時代は、中国美術史上、宣和せんな時代ともいわれる宋代美術の黄金時代であった。
その一方、徽宗は、豪華な宮殿や庭園の造営を好み、費用をまかなうために、新法を民生安定よりも民衆収奪のために行使した。とくに民衆を苦しめたのが、人口庭園を築くために、江南から奇岩珍木を大運河で開封に運ぶ、「花石網かせきこう」と呼ばれた徴発であった。花石網により、巨岩の通過する水門や橋はとりこわされ、大運河の水運も滞った。また大運河の周辺の住民は人夫に動員され、江南の民衆は多大な損害を被ったという。108人の豪傑が梁山泊に立てこもって権力に反抗する小説『水滸伝すいこでん』は、この徽宗時代の中国を舞台とするものである。

こうして華北一帯は金軍に占拠されたが、欽宗(宋)の弟趙構ちょうこうは江南に走り、皇帝に即位し(高宗)、杭州に都を置いて臨安りんあんと改称し、江南に拠って金朝に対抗した。これを南宋(1127〜1279<1276>)と呼ぶ。その後、南宋の内部では金朝に対する主戦派と和平派が対立するが、宰相秦檜しんかいの主導する和平派が、徹底抗戦を唱える武将岳飛がくひらを抑え、1142年、南宋は金朝に多額の歳貢さいこう(毎年銀25万両・絹25万匹)を贈るとともに、臣下の礼をとるという屈辱的な和議を結んだ(紹興の和約しょうこうのわやく)。こうして南宋は、大散関だいさんかん淮河わいが(淮水)を結ぶ線を国境とし、華北を完全に放棄することで両国に平和が訪れた。金朝は中国東北地方から内モンゴル・華北に広がる地域を支配した。

秦檜と岳飛

北宋末に進士に合格した秦檜しんかいは、官僚として栄達したが、靖康の変せいこうのへん(1126〜1127)で徽宗とともに金朝に連れ去られてしまった。その後、金の和平論者の撻懶だつらんのはからいによって帰国し、金の内情に通じていたことから、南宋の高宗(宋)の信任をえて、帰国後数年して宰相に起用された。秦檜は、金との戦争状態が長期化すると、民衆は重税によって苦しんで王朝への不満を高め、また、地方軍閥が台頭して中央政府の統制に服さず、かつての唐末五代のような社会混乱が再来することを恐れて、あえて和平論を主張した。

一方、農民出身で、一兵卒から異例の出世をとげた将軍岳飛がくひは、一流の武将でありながら学問の素養もある人物で、徹底抗戦を主張して秦檜と対立した。金との和平を急ぐ秦檜は、岳飛らの地方軍を中央軍に改変して統制を強化したが、最後までこれに従おうとしなかった岳飛を、無実の罪で捕らえて処刑してしまった。死後、その無実が明らかになると、岳飛は救国の英雄として廟にまつられ、今日でも民衆から尊敬をうけている。ところが、社会の安定と南宋の安泰を願って和平論を説いた秦檜は、華北を金に売り渡した売国奴として評判が悪い。

太祖(金)完顔阿骨打わんやんあぐだは、遼朝の二重統治体制を採用し、女真族固有の部族制(軍事組織)である猛安もうあん謀克ぼうこく(ミンガン・ムケ)を再編して、軍事・行政制度とし、これをもって女真人をおさめ、また漢人には中国式の州県制を用いてこれを統治した。

猛安・謀克

猛安もうあんは女真語で千を意味するミンガン、謀克ぼうこく邑長ゆうちょうを意味するムケの音訳であるといわれている。謀克は300戸からなり、その長も同じく謀克と称した。また10謀克をもって1猛安を組織し、その長も猛安とした。
この組織は軍事的機能をもち、戦時には1謀克から100名の兵士をだして1謀克軍を編成し、10謀克で1猛安を編成した。

第4代海陵王かいりょうおう(金)は、たびたび南宋攻略を試みるとともに、中国文化を愛好し、1153年、燕京えんけい(中都大興府と改称、現北京)に遷都して、中国風の専制国家を樹立しようとした。
その後、世宗(金)が擁立されると、再び南宋と講話し、しばらく平和を保った。

世宗(金)は1165年、南宋と再講和し、歳貢を銀20万両・絹20万匹に減額した。

しかし、華北に南下定住した女真族はしだいに中国文化の影響をうけ、民族の伝統的気風を失っていった。また相つぐ戦乱は王朝の財政をおおいに窮迫させ、とくに海陵王(金)の南宋攻略のときには、戦費調達のために初めて紙幣(交鈔こうしょう)が発行された。
それ以後、財政の窮乏を切り抜けるために、大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、その結果、激しいインフレーションを引き起こし、経済は破綻し、王朝の衰亡をはやめた。

やがてチンギス=ハンの意思をついだモンゴル帝国第2代皇帝オゴタイが華北に侵入し(第二次対金戦争)、金朝の都の汴京べんけい(現開封・モンゴルの侵攻を恐れて1214年に燕京から遷都した)を包囲すると、第9代皇帝哀宗(金)は、いったん汴京から脱出したが、モンゴルと南宋に挟撃されて自殺し、1234年金朝は第9代120年で滅亡した。

金朝では女真人の中国文化への同化を防ぐため、漢字と契丹文字をもとに独自の女真文字がつくられた。これは太祖阿骨打あぐだの時代に契丹文字と漢字をもとに考案された大字と、のちにこれを簡略化した小字からなっているが、まだ十分に解読されていない。

女真語は、アルタイ語族のツングース語系に属し、満州語にもっとも近い。女真文字の大字は表意、小字は表音文字で、両者とりまぜて使用されたとする説が有力である。なお、文字の体系は、ほぼ解明されつつある。

西夏文字と女真文字

西夏文字の大部分は、表意文字で、現在でな6,000字ほどが知られ、旧ソ連、中国や日本の研究者によってほぼ解読されている。また発音も西夏人の残した辞典や、漢字・チベット文字・梵字ぼんじとの対訳刻文によって明らかになった。

女真文字は、太祖阿骨打の時代に考案された大字と、1138年にこれを簡略化した小字からなっている。現在までに内外の研究者によって、女真文字の一部は、漢字をそのまま借用した表意語であり、一部には表音文字が使われたことが判明している。

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