封建社会の成立 国王・諸侯・騎士はいずれも身分的には騎士であり、封建貴族として一定の道徳規範(騎士道)に従って行動することが求められた。騎士道にはキリスト教の影響が強く、主君への忠誠や戦いにおける勇武とともに、異教異端の撲滅、弱者(特に女性)へのいたわりなどが重視された。だが13世紀以降農民出身の歩兵隊の出現、中世末の火薬や鉄砲の発明により騎士および騎士道は衰えた。
封建社会の成立

中国の封建制は氏族的な血縁関係に支えられていたのに対し、ヨーロッパ中世の封建制は1対1の双務契約的な関係からなっていたことが大きな相違である。また、ヨーロッパでは、複数の主君に仕える家臣も少なくなかった(複数従臣制)。
また、ヨーロッパの封建制の意味についても、その捉え方は一様ではないが、一般的には君主と家臣との間の封(封土)を媒介とした保護忠誠関係という狭義の捉え方と、荘園制ないし農奴制を経済的基礎とする社会体制という広義の捉え方とがある。ここでは、まず前者のとらえ方からみてみよう。
封土を媒介とした保護忠誠関係
8〜9世紀の西ヨーロッパでは、イスラーム教徒・マジャル人・ヴァイキングなど相次ぐ異民族の侵入とフランク王国の分裂、およびその後の王権の衰退のなかで、人々は自己の安全を守るため地方の有力者に土地を託して主従関係を結ぶようになった。その結果、支配階層間に私的な主従関係が幾重にも渡って成立することになり、有力者は多数の家臣を抱えて勢力を増し、各地に城塞を築いて諸侯として自立した。また、封(封土)は当初1代限りのものであったが、次第に世襲化されるようになり、国王を頂点に侯とか伯を名乗る大諸侯から、中小諸侯、騎士にいたる階層制(ヒエラルヒー)が成立した。国王は名目的には最上層を占めたが、実質的には地方の一諸侯にすぎず、ときとして他の諸侯に臣従する場合もあった。
封建的主従関係に伴う権利・義務
主従関係の締結は、託身と言われる臣従の儀式を必要とした。まず、家臣が主君の前にひざまずき、両手を合わせて差し出す。主君はそれを両手ではさんで、家臣として保護することを約束する。次に家臣は立ち上がり、福音書ないしは十字架に手をかけて忠誠を誓う。そうしてのち、主君は家臣に契約のしるしとして鞭・指輪・小枝などを与えるのである。それはいわば封の象徴であり、実際の封は土地(封土)や官職・金銭・徴税権など多種類にわたった。なお、封土の多くはもともと家臣の土地であったが、契約に際してそれを改めて主君から授封されるという形式を踏んだ。家臣は、こうした権利を手にする一方で、軍役奉仕と経済援助(捕虜となった主君の賠償金支払い、主君の長男の騎士叙任式、主君の長女の結婚式、主君のエルサレム巡礼費支払いなど)の義務を負った。

騎士の馬上試合(トーナメント)
今日、トーナメントといえば勝ち抜き戦の試合形式を指し、総当たり方式のリーグ戦と対比されるのが普通である。しかし、元来それはヨーロッパ中世の騎士による馬上試合を意味した。鎧・甲・に正装した騎士たちが、初めは2隊に別れて勝負を決め、次に一人ずつ相対して勝負を争った。勝負は槍を用いて相手を馬から突き落とすというもので、まさに実践的な演習を兼ねた行動であった。勝者は敗者の馬および馬具を奪い取ることができ、また、憧れの女性から祝福を受けた。騎士の崇拝する女性は、主君の夫人など既婚者の貴婦人である場合が多く、その恋愛も精神的な面が重んじられた。