社会経済の変化 後漢末から南北朝時代をつうじて、地方社会の有力者として豪族は各地で力を強めた。
以上の土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。社会経済の変化

門閥貴族:貴族のなかでその家から代々高官をだし、家柄の高さを誇るようになったものをいう。九品中正は、名門の家柄の固定化につながった。
後漢末以来の戦乱や豪族・貴族による大土地所有の発展によって、土地を失った農民は郷里を離れて流民となり、あるいは豪族・貴族の奴隷や隷属民になるものも現れた。これは、国家が直接支配する土地と人民とを減少させることを意味し、必然的に国家の財政、さらには軍事力の基盤を危うくするものであった。
このような事態への対応策としておこなわれたのが、三国の魏王朝の屯田制、西晋の占田・課田法、北魏の均田制である。
屯田性は、漢代、辺境で守備兵に戦闘の合間に耕作させることから始まった制度である(軍屯)。これに対して、魏の曹操は軍屯とは別に、後漢末の戦乱のために生じた中原の所有者のいない荒地を国有地とし、それを流民や一般農民を募って耕作させ、収穫の5〜6割を小作料として徴収する土地制度をはじめた。これが魏の屯田制(民屯)である。魏の財政は、主にこれに依存していたといわれる。なお、呉でも民屯がおこなわれた。
西晋の武帝(司馬炎)は、呉を滅ぼした直後の280年に占田・課田法といわれる土地制度をおこなった。このうち、占田は、土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝を上限とし、官人には官品にしたがって上限がそれぞれ定められた。なお、課田の解釈には、農民に国有地を割りつけ耕作させたとする説など種々のものがある。
均田制は、北魏の孝文帝によって始められた土地制度である。五胡十六国時代の戦乱のため荒廃した華北の農業生産力を回復し、税収を確保することを目的としたもので、一定の基準で土地を農民に支給し、自作農をつくることを目指したが、その効果は一部にとどまった。
なお、特徴的なことは、奴婢・耕牛をも対象にして土地が支給された点で、これらの土地は、当然、奴婢・耕牛の所有者である豪族に帰属することになったわけであり、北魏の均田制が豪族に有利な側面をもっていたことは確かである。こののち、均田制は北朝を経て隋に受け継がれ、唐で整備された。