第一次世界大戦と東アジア 67.中国革命の進展
中国革命の進展流れ図©世界の歴史まっぷ

第一次世界大戦と東アジア

日本は、第一次世界大戦をきっかけとして、大陸政策を積極化することを意図し、1914年8月、日英同盟にもとづいてドイツに対し宣戦布告、中国内のドイツ権益の中心であった山東半島の青島を占領した。海軍はドイツ東洋艦隊を迫撃しつつ、10月までに赤道以北のドイツ領南洋諸島を全て占領した。

第一次世界大戦と東アジア

ドイツが失った海外領植民地地図
ドイツが失った海外領植民地地図 ©世界の歴史まっぷ

日本は、第一次世界大戦をきっかけとして、大陸政策を積極化することを意図し、1914(大正3)年8月、日英同盟にもとづいてドイツに対し宣戦を布告し、中国内のドイツ権益の中心であった山東半島の青島チンタオを占領した。海軍はドイツ東洋艦隊を迫撃しつつ、10月までに赤道以北のドイツ領南洋諸島を全て占領した。

このころヨーロッパ諸国は、アジアのことを顧みる余裕がほとんどなかったので、日本はこの情勢を利用し、1915年1月、袁世凱 政府に対していわゆる二十一カ条の要求をつきつけた。この内容は、(1)山東省における旧ドイツ権益の継承、(2)大連だいれん旅順りょじゅんの租借期限および南満洲の鉄道利権の期限を99カ年延長すること、(3)漢陽かんよう大冶だいやなどにおける鉄・石炭の権益取得 、(4)中国政府の財政・軍事顧問として日本人を採用すること、などである。これはいずれも中国の主権を無視し、日本の強引な侵略政策を強行しようとするものであっただけに、中国政府は強く反対したが、日本は軍事力を背景に最後通牒さいごつうちょうをつきつけることによって、強圧的にこれを承諾させた。これに対して、中国の民衆は激しい反対運動をおこし、排日の気運は急速に高まることとなった 。また、欧米列強は日本の露骨な中国進出政策に対する警戒心を強めることとなったので、日本は1917年に海軍の一部をヨーロッパに派遣して、連合国の作戦に協力し、またアメリカとは石井・ランシング協定 を結んで、対中国の利権調整をはかった。

対華二十一カ条の要求

第一号
・・・第一条 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す(中略)
第二号
日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
第一条
両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限 を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す(中略)
第五号
中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘ようへいせしむること

日露戦争後のロシアおよび清国との条約により、旅順・大連の租借期限は1923(大正12)年に満了することになっていた。

中国側の抵抗により、この要求は撤回された。

漢冶萍公司かんやひょうこんす(漢陽製鉄所・大冶鉄山・萍郷炭鉱ひょうきょうたんこうよりなる会社)を、日華で共同経営することを提案したものであるが、経営の実権は日本が掌握することとなっていた。とくに大冶の鉄鉱石は、八幡製鉄所の原料として、日本にとって重要な意義をもっていた。

憤慨した中国民衆は、最後通牒がだされた5月7日と、袁世凱がこれを受諾した同9日を「国恥記念日」と呼んだ。

1917年11月、ワシントンで日本全権石井菊次郎とアメリカ国務長官ロバート=ランシングとの間に交換された外交上の公文。アメリカは、中国における日本の特殊権益を認め、日本は、アメリカの中国への機会均等を認めるという内容を協定。

第一次世界大戦によって、日本経済は未曾有の好景気を迎え、また、戦後のパリ講和会議では、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権をえて、南方進出のひとつの基盤をつくることとなった。一方、大戦後成立した国際連盟では、常任理事国となって国際的地位が向上し、軍事力も強大となって、強国のひとつに数えられるにいたった。しかし、二十一カ条要求以後における日本の露骨な大陸進出政策は、イギリス・アメリカをはじめとする諸外国の警戒するところとなり、1921年より22年にかけて開かれたワシントン会議において、九カ国条約が結ばれ、(1)中国の主権と領土を尊重すること、(2)各国の商工業の中国に対する機会均等と中国の門戸開放が定められた。これによって大戦中の石井・ランシング協定は破棄された。

また、日本では大戦をつうじ手国民の政治意識が急速に高まり、政治参加の拡大を求める声が強くなると同時に、労働運動や農民運動も活発となり、一方ロシア革命の影響もあって社会主義思想への関心も高まった。1918(大正7)年の米騒動政党内閣の誕生や、1925(大正14)年における男性普通選挙法・治安維持法の公布は、このような情勢のなかから生まれたものである。

シベリア出兵と日本

1917年ロシア革命がおこり、社会主義政権が成立すると、1918年イギリス・フランス・アメリカなどの諸国は、革命の影響が広がることに重大な脅威を抱き、シベリアの反革命勢力の援助を目的として出兵した。日本もこれに同調して大軍を派遣し、東シベリアを占領した。1920年にいたり、各国はいずれも撤兵したが、これを機にシベリア進出をはかった日本は駐留を続けたため、国際的な非難をうけ、1922年ついに撤兵した。この間、1920年にアムール港湾のニコライエフスク(尼港にこう)で、パルチザン部隊が日本居留民と日本守備隊を襲撃し、多数の死傷者をだした「尼港事件」がおこっている。
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