靖難の役と永楽帝の治 靖難の役(1399〜1402)で甥の建文帝を倒して帝位についた永楽帝は、1410年から5回にわたり、自ら軍を率いてモンゴル高原へ遠征し洪武帝が北元を滅ぼしたのちに台頭した東のタタール(韃靼)部や、西北のオイラト部を撃退。南方のベトナムの陳朝を一時的に支配した。1405年以降、宦官鄭和に命じて、大規模な船団を率いて南海に大遠征を行わせ、南海諸国の朝貢を促すことに成功した(朝貢貿易)。
靖難の役と永楽帝の治
洪武帝には生涯に26人の男子がいたが、彼らすべてを封じ、国内の重要拠点に配置して諸王とし、明王室の守りとした。これら諸王は、ほとんど実権は持っていなかったが、ただ北辺のモンゴルに対する備えから、北平(のちの北京)など数カ所の諸王には軍事権などを与えていた。 洪武帝は、後継者である皇太子の朱標が死去すると、皇太孫の朱允炆を後継者に定めた。これが建文帝(恵帝 位1398〜1402)である。即位後、建文帝は側近の意見に従い各地の諸王の権限を削減する諸王抑圧策をとった。これに反抗したのが、当時諸王の中で最大の勢力を誇っていた北平の燕王朱棣である。 燕王は直ちに軍事行動をおこし、甥の建文帝をあやまらせた側近を排除しようと、「君(建文帝)側の奸をのぞいて帝室の難を靖んず」をスローガンに北平で挙兵し(靖難の役 1399〜1402)、金陵を攻略してここで帝位についた(永楽帝 成祖 位1402〜1424)。 永楽帝は宦官を重く用い、新たに内閣大学士を設置して皇帝の顧問とし、重要な政務に参加させた。またモンゴル族に対抗するため、1421年、首都を金陵から自らの根拠地であった北平に遷し、ここを北京、金陵を南京と改称した。 さらに江南と北京とを結ぶ運河を整え、また(万里の長城)を修築補修して北方民族の南下に備えた。
その一方で、永楽帝は積極的な対外政策を行なった。まず1410年から5回にわたり、自ら軍を率いてモンゴル高原へ遠征し、洪武帝が北元を滅ぼしたのちに台頭した東のタタール(韃靼)部や、西北のオイラト部を撃退した。南方に対しては、ベトナムの陳朝に軍を派遣して一時的に支配した。さらに1405年以降、イスラーム教徒の宦官鄭和に命じて、大規模な船団を率いて南海に大遠征を行わせた。鄭和の南海遠征は征服が目的ではなく、明の威勢を東南アジア世界に誇示するためのものであり、南海諸国の朝貢を促すことに成功した(朝貢貿易)。