イギリスとフランス
第一次大戦後のイギリスは、2度の選挙法改正でほぼ男女平等選挙権に近づいた。フランスは、インフレによりフラン下落。ポワンカレ首相はフランの価値を戦前の5分の1に切り下げる措置をとり、フランス経済は20年代末にはアメリカにつぐ好況を経験したが、大戦での犠牲、出生率低下により人口が減少し、東南欧地域からの移民で補った。
イギリスとフランス
イギリス
イギリスは、大戦末期に30歳以上の女性選挙権導入や男性選挙権の改正などによって政治基盤を拡大させ(第4回選挙法改正 1918)、さらに28年には女性選挙権を男性と同じ21歳に引き下げ(第5回選挙法改正 1928)、ほぼ男女平等選挙権に近づいた。戦後最初の総選挙では、大戦中からの自由・保守党政権が圧勝し、ロイド=ジョージ政府は継続して平時体制への移行問題に対応した。大戦中もイギリス側と激しく対立していたアイルランド民族運動に対しては、1920年末、アイルランド統治法によって、北部のアルスター地域をのぞく諸州に自治を与え、さらに21年には自治諸州をアイルランド自由国として自治領と認めて、一定の解決をはかった。なお26年の帝国会議では、イギリスと自治領との関係を名目上対等とする報告書が提出され、31年のウェストミンスター憲章 Westminster で確認されて、イギリス連邦の枠組みが出来上がった。しかし、アイルランドでは完全独立を求めるデ=ヴァレラ De Valera (1882〜1975)が30年代に政権を握ると、37年新憲法を制定して、国名をエールとし、イギリス王国への忠誠を止め、実質的に連邦体制から離れた。
1923年総選挙で保守党が敗北すると、第二党の労働党は自由党の支持をえてマクドナルド内閣 MacDonald (1866〜1937)を組織した。しかしマクドナルド政権はソ連承認などをのぞくと独自色を出せないまま短命に終わり、24年以降保守党のボールドウィン政権 Baldwin (1867〜1947)が成立した。マクドナルド政権の成立は労働党が改革の党として支持を集め、一方自由党が凋落する傾向を明らかにしたもので、保守・労働二大政党時代への転換点となった。保守政権は26年の労働組合のゼネスト攻勢を押さえこみ、ソ連とも一時断交したが、一方では年金制度や失業保険制度の拡充など社会政策の充実を推進した。1929年の総選挙では労働党が辛勝し、再びマクドナルドを首相とする労働党の単独内閣が成立した。
フランス
連合国 のなかで大戦による人的・物的被害がもっとも大きかったフランスは、外交的にはドイツの再強国化を阻止するため、また経済的損失を補うために、ドイツに対する賠償支払いで強硬な姿勢をとる一方(フランスの賠償取り分は5割をこえていた)、ドイツを包囲するために、ベルギーと軍事同盟を、またポーランドとは同盟を結び、露仏同盟にかわる東欧の同盟網として、20年代前半に成立していたチェコスロヴァキア・ルーマニア・ユーゴスラヴィア3国間の小協商を支援し、20年代後半にはこれら3国と個別に同盟を結んだ。対独強硬路線はポワンカレ首相 Poincaré (1860〜1934)のもとでおこなわれた23年1月のルール占拠で頂点に達したが、国際的な批判をうけ、20年代後半には集団安全保障体制を重視する方向に転じた。
国内では戦後直後からの激しい労働攻勢が挫折した後、24年から中道左派政府が成立して一時的に安定したが、インフレによるフラン下落に有効な対応ができず、26年再びポワンカレが首相に復帰した。ポワンカレは財政立て直しに取り組み、28年にはフランの価値を戦前の5分の1に切り下げる措置をとった。この結果、フランス経済は20年代末にはアメリカにつぐ好況を経験することになった。とはいえ、大戦での犠牲に加えて、出生率低下による人口減少は深刻であった。それを補うのは東南欧地域からの移民であり、30年代初めには移民は総人口の7%を占めるまでになった。