イスラーム改革思想
Sab’u Masajid, Saudi Arabia (画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

イスラーム改革思想

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イスラーム改革思想

ヨーロッパ諸国の進出は、神の法としてのイスラーム法の絶対的権威は傷つけられ、産業構造の変化とともに都市や農村の共同体が破壊された。イスラームの危機がヨーロッパ諸国への従属をもたらしたと考える思想が生まれ、現状を腐敗・堕落として批判し、打開する原点として初期イスラームの思想への復古とこれによる革新を主張するサラフィーヤの思想が主要な潮流となった。

イスラーム改革思想

イスラーム改革思想

ムハンマド=ブン=アブド=アルワッハーブワッハーブ運動イスラーム教の原点回帰を目指す改革運動。豪族サウード家と協力してシャリーア(イスラーム法)を厳格に適用する王国(ワッハーブ王国)の建設を目指した。神秘主義やシーア派を激しく攻撃し、各地のイスラーム復興運動に影響を与えた。
ムハンマド=アフマドマフディー運動スーダンの宗教運動および反英武力闘争。マフディー軍は1885年にハルツームを征圧したが、98年エジプト・イギリス連合軍に鎮圧された。
ムハンマド=ブン=アリー=アッサヌーシーサヌーシー教団メッカで創設したイスラーム神秘主義教団。のちにリビアに本拠地を移した。フランスやオスマン帝国と対決姿勢をとり、1911年以降はイタリアの進出に抵抗した。51年にリビア王国が独立すると、教団の指導者が国王となったが、69年に革命で王制は打倒された。
アフガーニーパン=イスラーム主義帝国主義の脅威とこれに抵抗する非圧迫者の連帯を自覚し、ムスリムの自己変革によるイスラームの改革(内なる改革と外への防衛)。
ムハンマド=アブドゥフパン=イスラーム主義アフガーニーの弟子となり、ウラービー運動にも参加。イスラーム法を合理的に柔軟に再解釈することによってイスラームを現代の課題に適合させる道を開いた。
ラシード=リダーパン=イスラーム主義ムハンマド=アブドゥフの弟子。師とはことなる厳格な正義主義の立場をとり、イスラームを固定化しこれを現実に押しつけていく原理主義的立場を示し、ムスリム同胞団のような、イスラーム国家の樹立をめざす大衆運動が生まれた。

ナポレオンのエジプト遠征に始まるヨーロッパ諸国の進出は、中東地域の政治・軍事・法制・経済・教育の各方面における改革をもたらし、19世紀の末には、ヨーロッパ諸国への政治的・経済的従属が明らかとなった。そこでは神の法としてのイスラーム法の絶対的権威は傷つけられ、産業構造の変化とともに都市や農村の共同体が破壊され、ウラマーやスーフィーにかわり新知識人が輩出した。このような変化は、イスラームの危機としてとらえられたが、そこではヨーロッパ諸国への従属がイスラームの危機をもたらしたのではなく、イスラームの危機が従属をもたらしたと考える思想が生まれた。したがって、その克服は、イスラーム自体の内部にたちかえって模索されるべきものと考えた。すなわち、現状を腐敗・堕落として批判し、それを打開する原点として、初期イスラームの思想への復古とこれによる革新を主張するサラフィーヤ Salafiya の思想が主要な潮流となった。

このような思想運動の出発点となったのは、アラビア半島におこったワッハーブ運動である。ムハンマド=ブン=アブド=アルワッハーブ Muhammad b. Abd al-Wahhab (1703〜91)は、各地を学問遍歴したのち、コーランと預言者のスンナ(範例)にたちもどることを主張し、神秘主義などを逸脱として批判した。この運動は、ナジュド地方 Najd の支配者ムハンマド=ブン=サウード Muhammad b. Saud (1765没)の保護をえて拡大し、19世紀初頭にはメッカ・メディナを占領し、ワッハーブ王国とも呼ばれた。国王は、ムハンマド=アリーの討伐をうけ一時滅亡したが、1823年に再興された(〜1889)。またリビアのサヌーシー教団やスーダンのマフディー運動も、現状を批判しイスラーム内部に抵抗と革新の原理を乱す点において共通性をもっていた。

アフガーニーは、アフガニスタン・エジプトなどを遍歴するうちに、帝国主義の脅威とこれに抵抗する非圧迫者の連帯をいち早く自覚し、そのためにはムスリムの自己変革によるイスラームの改革が必要であることを訴えた。すなわち、内なる改革と外への防衛が結びつけられていた。アフガーニーの影響をうけたムハンマド=アブドゥフは、ウラービー運動での政治的敗北のあと、イスラーム法を合理的に柔軟に再解釈することによってイスラームを現代の課題に適合させる道を開いた。他方その弟子のラシード=リダー Rashid Rida (1865〜1935)は、師とはことなる厳格な正義主義の立場をとり、イスラームを固定化しこれを現実に押しつけていく原理主義的立場を示した。後者の立場から、ムスリム同胞団のような、イスラーム国家の樹立をめざす大衆運動が生まれてくる。

西アジアの動向 イラン・アフガニスタン

イラン・アフガニスタン
1722ロシア軍、イランに侵入
1736サファヴィー朝滅亡、アフシャール朝成立
1739アフシャール朝のナーディル=シャー、デリー占領(〜40)
1747アフガン王国独立
1750イランにザンド朝成立(〜94)
1794カージャールのアーガー=ムハンマド、ザンド朝を滅ぼす
1796アフシャール朝滅亡、カージャール朝成立
1804第1次イラン=ロシア戦争(カージャール朝敗北)
1813年ゴレスターン条約条約(ロシアに北アゼルバイジャンを譲る)
1826第2次イラン=ロシア戦争(カージャール朝敗北)
1828年トルコマンチャーイ条約(ロシアに治外法権を認め、東アルメニア割譲)
1838第1次アフガン戦争、イギリスの侵略失敗(〜42)
1848バーブ教徒の反乱(〜52)
1857イギリス=イラン戦争終結(56〜)
1869アフガーニ、カイロに移住、活動再開
1878第2次アフガン戦争(〜80) → イギリス軍、カブール占拠
1891イラン、タバコ=ボイコット運動
参考:山川 詳説世界史図録

オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図

54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア
54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図 ©世界の歴史まっぷ
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