ヨーロッパ人の進出とインド洋世界 1763年の世界地図 アジアの通商圏とポルトガルの進出 アジアの通商圏とポルトガルの進出
1763年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ人の進出とインド洋世界

17世紀のオランダ、18世紀のイギリス・フランスなど西欧諸国は、交易活動の舞台を、アラビア海・インド洋西海域から、ベンガル湾・南シナ海・東シナ海にまで拡大し、アジアとヨーロッパを結ぶ貿易で利益をえ、アジア内で商品生産・通商活動に参入・支配してえた利益を本国の出資者に還元していた。しかし、17〜18世紀においては、アジアの通商、貿易ネットワークへの参入であり、まだアジアの経済・社会の基本構造を変えるにはいたってなかった。

ヨーロッパ人の進出とインド洋世界

ヨーロッパ人の出現以前に東・南シナ海、インド洋、ペルシア湾、紅海の海域では交易ネットワークが発達しており、中国・東南アジア・インド・西アジアを結ぶ人間の往来、物品・情報の交流が活発におこなわれていた。これらの海域では、マレー半島のマラッカ、インド西海岸(マラバール海岸)のカリカット、ペルシア湾入口のホムルズ、紅海入口のアデン、メッカに近いジェッダなどの交易都市が栄えていた。

特にカリカットなどマラバール海岸の諸港市では、胡椒の産地でもあり、マラッカや東南アジアの産物を西方にとりつぐことでインド洋周辺の商業の中心ともなっていた。ここではアラビア海・紅海・ペルシア湾海域での貿易を一手に握っていたアラビア・エジプトのムスリム商人が活躍し、港市には彼らの代理人などが居住し、それぞれの土地の政治権力者の承認のもと独自の自治社会を形づくっていた。商業活動に専念していたムスリム商人は、ヒンドゥー教徒の権力者の庇護もうけており、必ずしもイスラームの普及には熱心ではなかったが、1414年マラッカ王がイスラームに改宗し、以後東南アジアにもイスラーム教が広まった。ヨーロッパ人の来航は、こうしたインド洋を中心とする交易ネットワークに大きな変化をもたらした。

スペイン帝国の成り立ち 世界の一体化と銀 スペイン・ポルトガルの進出地図
スペイン・ポルトガルの進出地図 ©世界の歴史まっぷ

1498年、ヴァスコ=ダ=ガマが4隻の帆船でマラバール海岸のカリカットにやってきて以来、毎年ポルトガルの船団が来航することになる。彼らはこのインド洋の交易ネットワークに参入し、武力で貿易の覇権を握ろうとした。こうしたポルトガル勢力の進出を警戒したエジプトのマムルーク朝とインドのグジャラート王国は、ヴェネツィアにも支援され、連合艦隊を編制しポルトガル艦隊を撃退しようとしたが、1509年ディウ沖の海戦で敗れた。ポルトガルは、1510年ビージャプル王国の支配下にあったインド西南部の港町ゴアを襲撃・占領し、ここに軍事・商業基地をきずき、ついでマラッカ、ペルシア湾頭のホルムズをも占領し、インド洋海域一帯の商業・貿易を支配しようとした。彼らは、従来ムスリム商人・インド商人などがきずいていた交易路や重要な港市間の貿易を統制し、また香辛料などの貿易を独占することで利益をえた。これが東方ポルトガル帝国と呼ばれたものである。

16世紀、東西世界を結ぶ西アジア・南アジア地域に3つの強大な国家が存在していた。オスマン帝国サファヴィー朝ムガル帝国である。しかし、これらはいずれも内陸国家であり、また相互に牽制しあい、インド洋海域の貿易支配には乗り出さなかった。こうしたこともポルトガルの覇権の確立に幸いした。しかし、ポルトガルの支配は海上ルートと海岸線のみにとどまり、内陸にはおよばなかった。また、その海上ルート、拠点保持のためには艦隊・武器・人材の補給が必要であり、ポルトガルは人口面・生産面でもそれらを支える力が十分ではなかった。各地に在住するポルトガル人やその混血の子孫もしだいに本国の統制に服さなくなった。そのようなわけで16世紀の終わりには、すでにポルトガルの覇権は失われつつあった。

ポルトガル艦隊の海上制覇が徐々にくずれてきたのに乗じて、希望峰経由のインド洋ルートに挑戦しはじめたのがオランダイギリスフランスである。彼らはポルトガル人に反感をもつ現地の勢力とも結び、ポルトガル人の拠点を奪い、各地に商館を開いた。彼らは17世紀初頭、本国で出資者を集め、それぞれの国で東インド会社を設立し、インド洋諸港市に設立した商館や要塞で現地商品を仕入れて貯蔵し、インド洋海域内貿易において通商の主導権を握ろうとしたばかりでなく、オランダの香料諸島占領にみられるように、特定商品の産地を獲得し、さらにはプランテーション農場の経営もめざすようになる。

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17世紀のオランダ、18世紀のイギリス・フランスなど西欧諸国は、その交易活動の舞台を、アラビア海・インド洋西海域から、ベンガル湾・南シナ海・東シナ海にまで拡大した。彼らはアジアとヨーロッパを結ぶ貿易で利益をえただけでなく、アジア内での商品生産・通商活動に参入し、支配することでえた利益を本国の出資者に還元していたのである。しかし、17〜18世紀においては、ヨーロッパ人の活動は、なおアジアの通商、貿易ネットワークへの参入であり、それがアジアの経済・社会の基本構造を変えるにはいたってなかった。

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