ハンムラビ王 バビロン第1王朝 古代オリエント オリエント世界の風土と民族 古代オリエント世界の地図 2.古代オリエント世界
古代オリエント世界の地図©世界の歴史まっぷ
Next Post

オリエント世界の風土と民族

オリエント Orient とは、「太陽の昇る方向」を意味するラテン語のオリエンス Oiens からでた語で、元来は古代ローマ人によって、ローマあるいはイタリア半島からみて東方の地を指すのに用いられた。高原や山岳が連なっているが、その他の地域はおおむね平地で、大部分は砂漠かそれに近い乾燥地帯になっている。

オリエントと地中海世界

オリエントと地中海世界
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

オリエントは人類文明発祥の地である。メソポタミアとエジプトでは、大規模な灌漑農耕に依拠する高度な都市文明が発達した。メソポタミアでは、周辺地域からセム語系やインド=ヨーロッパ語系の民族が相ついで侵入し、国家の興亡をくりかえした。文化的には、楔形文字六十進法、太陰暦などが発達した。他方、ナイル川流域のエジプトは、地形から周辺民族の侵入は少なく、エジプト語系民族の文明が長期に渡り存続した。文化的には、神聖文字などの象形文字やパピルス(紙)、太陽暦などが発達した。

地中海東岸のシリア・パレスチナ地方では、セム語系アラム人フェニキア人ヘブライ人が特色ある活動を展開した。アラム人は内陸商業に活躍し、フェニキア人は地中海貿易で活躍し、彼らの使用文字から各地の文字体系が作り出された。また、ヘブライ人の生み出した一神教(ユダヤ教)は、のちのキリスト教イスラーム教の母体となった。オリエント世界は、紀元前7世紀にアッシリアに、のちアケメネス朝のもとで統一され、帝国がきずかれた。

西アジアでは、アレクサンドロス帝国の分裂後、ギリシア系のセレウコス朝、バクトリアがおこった。ついでイラン系のパルティアがおこり、東西貿易の利益を独占して繁栄した。パルティアを倒して成立したイラン系のササン朝は、ゾロアスター教を国教と定めイランの文化的伝統の復活を目指すとともに、インドやギリシア・ローマ文化の影響をうけ高度な国際的文化を形成した。その文化は7世紀以後のイスラーム文化にも影響を与えた。

地中海世界ではオリエントの影響下に、紀元前2000年ころより強大な王権をもつエーゲ文明が花開いた。その崩壊後、ギリシア人ポリスと呼ばれる都市国家を発達させ、紀元前5世紀にはアテネに民主政を実現した。ギリシア人はオリエントとことなる人間中心の明るい合理的な文化を生み出した。ギリシアのポリスは、やがて相互の対立をへて衰退し、アレクサンドロス3世の遠征によりオリエントに伝えられたギリシア文化ヘレニズム文化として発展した。紀元前6世紀末イタリア半島の中部におこったローマは、共和政のもとで積極的に征服・植民活動をおこない、法や土木建築など実用的な文化を発達させた。ローマは紀元前1世紀には帝政を採用して地中海を内海とする大帝国を樹立した。ローマ帝国の統治のもとで発達した普遍的な法と、4世紀にローマの国教となったキリスト教はローマが後世に残した最大の遺産である。

古代オリエント世界

オリエント世界の風土と民族

オリエント Orient とは、「太陽の昇る方向」を意味するラテン語のオリエンス Oiens からでた語で、元来は古代ローマ人によって、ローマあるいはイタリア半島からみて東方の地を指すのに用いられた。地理的には時代によってその範囲に変化が見られるが、歴史的用語としては、今日「中東」とか「中近東」と呼ばれる地方、すなわち東はイラン高原の東境、西はエジプト、北はカフカス山脈、南はアラビア半島にいたる地域を指す。アナトリアからアルメニア・イランへと続く北部および東部、またアラビア半島南西部と紅海をはさむその対岸地方には、高原や山岳が連なっているが、その他の地域はおおむね平地で、大部分は砂漠かそれに近い乾燥地帯になっている。というのもこの地域では、高地帯で季節的に雨が降る地方もあるとはいえ、一般的には降雨が極めて少ない上に気温が高いためである。

そこでは長い間、羊と山羊を中心とする遊牧と天水に依存する乾地農業、それに小河川流域とオアシスの小規模な灌漑農業が営まれていた。やがてティグリス・ユーフラテス両河とナイル川という大河の流域で、季節的な氾濫を灌漑に利用する技術が発達し、豊かな穀物生産に基礎をおく高い文明が開花した。

機構の乾燥化が、これら大河流域への人口集中を招く要因となった、とういう説がある。
古代オリエント世界の地図 2.古代オリエント世界
古代オリエント世界の地図©世界の歴史まっぷ
メソポタミアは、ギリシア語で「川と川の間の地」の意味。なお、メソポタミアから地中海東岸のシリアへかけて細長く展開する緑地帯は、「肥沃な三日月地帯」Fertile Crescent と呼ばれ、最古の農耕文明発祥の地であった。

ティグリス・ユーフラテス両河流域のメソポタミアで最初の都市文明を築いたのは、民族系統不明のシュメール人であった。しかしメソポタミアは開放的な地形であったため、周辺よりセム語系やインド=ヨーロッパ語系の遊牧民や山岳民が侵入をくりかえし、国家の興亡が激しかった。これに対し、ナイル川の流域に発展したエジプトは、東西は砂漠、北は海、南はナイル川の急湍きゅうたん(ナイル川の中流には6ヶ所に、舟航の不可能な急湍(流れが激しく急な部分)がある。)に囲まれているため、外敵の侵入を受けにくく、エジプト語系の民族が長期にわたって比較的安定した支配を行なった。この両地域以外でも、歴史時代に入ってからオリエント世界で活躍した民族は、セム語系かインド=ヨーロッパ語系に属するものが多いが、シュメール人やのちに現れるフルリ人・「海の民」のように、系統不明の民族も少なくない。

ラクダの家畜化

オリエント世界で重要な役割を果たすことになる「ひとこぶラクダ」は、紀元前3千年紀前半になってようやくアラビア半島南東部で家畜化されたと考えられている。これによって砂漠の奥地も遊牧のため利用できるようになった。最初は搾乳用であったが、やがて駄役だえきや騎乗へと用途が広がり、砂漠超えの長距離交通に不可欠の手段となった。そして紀元前2千年紀の末から紀元前1千年紀の前半にかけて、シリアやメソポタミアにも登場し、大勝交易の発展や、のちのアラブの軍事的進出に大いに貢献した。
これに対し、内陸アジアシルク・ロードで使役された「ふたこぶラクダ」は、イラン北東部のホラーサーン地方かその北方あたりで、やはり紀元前3千年紀に家畜化されたと考えられている。

広告