パルティアの文化は早くよりヘレニズムの影響を強くうけ、王が「ギリシア人を愛するもの(フィルヘレン)」という称号をおびるほどであった。ササン朝になると、民族宗教のゾロアスター教が国教とされ、経典『アヴェスター』が編纂されるなどして、アケメネス朝以来のイランの文化的伝統が復活した。
パルティアとササン朝の文化
パルティアの文化
パルティアの文化は早くよりヘレニズムの影響を強くうけ、王が「ギリシア人を愛するもの(フィルヘレン)」という称号をおびるほどであった。
ギリシア語が公用語とされ、貨幣の銘文にもギリシア文字が用いられた。しかし征服者であり支配者である遊牧パルティア人と先住農耕民との融合が進むに連れて、文化にもしだいにイラン的要素が強くなり王朝後期にはパフレヴィー語(中世ペルシア語)がアラム文字で表現されて公用語化した。
宗教的にも徐々にイラン色が濃くなり、ゾロアスター教が信奉されるようになったが、ミトラダテスと名乗るパルティア王がいたことからみて、ミトラ神への信仰も強かったと思われる。バビロニア地方ではセム系とイラン系の宗教混合も進んだ。
ササン朝の文化
ササン朝になると、民族宗教のゾロアスター教が国教とされ、経典『アヴェスター』が編纂されるなどして、アケメネス朝以来のイランの文化的伝統が復活した。しかし一般に王たちが民間の宗教には寛容であったため、国内には仏教徒やキリスト教徒、それにユダヤ教徒もかなりいた。
3世紀にはゾロアスター教・キリスト教・仏教などを組み合わせた独自の救済宗教(マニ教)がマニによって創始された。この宗教はやがて国内では異端として弾圧されたので、地中海世界や中央アジア(とくにウイグル人によって信仰された)、さらには中国(唐)へも伝わった。
キリスト教も一時弾圧されたが、431年のエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされると、ササン朝は敵国ローマの反体制分子としてネストリウス派教徒をうけいれるようになった。このようにササン朝のキリスト教政策は、ローマとの関係に左右されることが多かった。ネストリウス派はこのあと東方への布教を積極的におこなった結果、中央アジアを経て中国(唐朝)にまで伝播して景教と呼ばれる一方で、ペルシア湾を経てインドにまで広がった。
ササン朝時代には建築・美術・工芸の発達がめざましかった。それもアケメネス朝以来のイランの伝統的な様式に、インドやギリシア、ローマの要素が加味されて国際的な性格を備えていた。
磨崖の浮き彫りや漆喰を使った建築にすぐれた手腕を発揮しているが、もっともよく知られているのは工芸美術で、金・銀・青銅・ガラスを材料とする皿、盃、水差し、香炉、鳥獣・植物の模様を織りだした絹織物、彩釉陶器などがとくに優れている。
ササン朝美術の様式や技術は、次のイスラム時代に継承されるとともに、西方では東ローマ帝国を経て地中海地方に、東方では南北朝・隋唐時代の中国を経て、飛鳥時代・奈良時代の日本にまで伝来して、各地の文化に影響を与えた。
日本では、正倉院の漆胡瓶や白瑠璃碗(カットグラス)、法隆寺の獅子狩文様錦などが、その代表例である。