中国文明の誕生
紀元前5000年〜紀元前4000年ころから、黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は、初期農耕を始めて粟などの雑穀を栽培し、家畜を飼い、磨製石器や彩文土器(彩陶)を用いる新石器文明を形成した。これが中国最古の文明の黄河文明であるが、この黄河文明は、出土土器の特色によって、彩陶を特色とする前期の彩陶文化(紀元前4000〜紀元前3000)と、薄手の黒陶を特色とする後期の黒陶文化(紀元前2000〜紀元前1500)に大きく区分される。
中国文明の誕生
黄河文明
紀元前5000年〜紀元前4000年ころから、黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は、初期農耕を始めて粟などの雑穀を栽培し、家畜を飼い、磨製石器や彩文土器(彩陶)を用いる新石器文明を形成した。これが中国最古の文明の黄河文明であるが、この黄河文明は、出土土器の特色によって、彩陶を特色とする前期の彩陶文化(紀元前4000〜紀元前3000)と、薄手の黒陶を特色とする後期の黒陶文化(紀元前2000〜紀元前1500)に大きく区分される。
彩陶文化
彩陶文化は、その遺跡が1921年に河南省澠池県仰韶村で最初に発見されたので、仰韶文化ともいい、陝西・甘粛省など主として黄河中流域に広く遺跡が分布している。1952年に陝西省西安近郊の半坡村で発見された集落遺跡は仰韶文化の最大のもので、竪穴式住居跡が多数見つかり、集落の周囲には、幅・深さとも5〜6mの防御溝が設けられていた。
主作物として粟がつくられ、豚・犬などの小型家畜が飼育されていたほか、糸を紡ぐ紡錘車なども使用されていた。
仰韶文化 – 世界の歴史まっぷ
黒陶文化
黒陶文化は、その遺跡が1930年に山東省歴城県の竜山鎮で最初に発見されたので、龍山文化とも言い、河南・山東省など黄河下流域を中心に、遼東半島から 長江流域まで、かなり広い範囲で遺跡が分布している。
黒陶は卵の殻のような薄手の、黒色無地の光沢のある土器で、焼成温度が高いこと(1000℃以上)や轆轤が用いられていることから、彩陶よりも一段進んだ段階の土器であり、殷・周代の青銅器の原型になったものとも考えられている。
また、黒陶とならんで、厚手で粗製の灰陶も多く出土しており、これらの黒陶や灰陶には、独特の三本足の形状をもつ三足土器も多く見られる。三足土器には、形状や用途によって鼎・鬲などの種類がある。
黒陶文化の段階になると、集落の規模も彩陶文化に比べて大きくなり、牛・馬などの大型家畜も飼育されたほか、占卜に使用されたとみられる獣骨が出土していることは、殷代との関連の上で注目される。
黄河の泥
黄河の泥は、主として中流部の黄土高原から供給されている。黄河の山西・陝西省境の区間と渭河・経河地区は、暴雨地区で、また黄土体積がもっとも厚い。しかし、植被はかなり劣り、水土流失が最大の激甚地区で、黄河の泥の主要生産地区である。黄河の平均含砂量は、37.7kg/㎡で、1年間の砂の輸送量は、16億トンに達する。また、3000年の間に、1500回以上も洪水を生じ、流路の大変遷だけでも9回にのぼっている。
長江文明
また、近年の発掘の結果、こうした黄河流域の文明とならんで、長江の下流域にも、紀元前4000年以前にさかのぼる古代文明が存在していたことが明らかにされた。特に1973年〜1974年に発掘された浙江省の河姆渡遺跡からは、高床式の木造住居跡や土器(彩陶・黒陶)とともに、大量の稲籾が出土し、人工的な水田施設をともなう集落がつくられていたことが明らかになった。
- 長江文明 – 世界の歴史まっぷ
年表
長江文明と黄河文明のおおよその年表 数字はすべて紀元前
黄河流域 | 長江上流域 | 長江中流域 | 長江下流域 | |||
紀元前8000年以前 | 玉蟾岩遺跡 | 仙人洞・呂桶環遺跡 | ||||
7000 | 6000 |
彭頭山文化 | |||||
6000 | 5000 |
湯家崗文化 | 城背渓文化 | ||||
5000 | 4000 |
仰韶文化 | 馬家浜文化 | 河姆渡文化 | |||
4000 | 3000 |
大渓文化 | 崧沢文化 | ||||
良渚文化 | ||||||
3000 | 2000 |
竜山文化 | 宝墩遺跡(龍馬古城) | 屈家嶺文化 | |||
三星堆遺跡 | 石家河文化 | |||||
2000 | 1000 |
二里頭文化(夏?) | 馬橋文化 | ||||
二里頭文化 | ||||||
二里岡文化(殷遷都前) | 二里岡文化 | |||||
殷遷都後 | 殷 | 呉城文化 | 湖熟文化 | |||
周 | 周 | 楚 | ||||
1000以降 | 巴蜀 | |||||
呉越 |