中期ビザンツ帝国 ビザンツ帝国の最大領土(1035)地図
ビザンツ帝国の最大領土(1035)地図 ©世界の歴史まっぷ

中期ビザンツ帝国 (8世紀初め〜11世紀)

中期ビザンツ帝国

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

この時代に、ビザンツ帝国はイスラーム勢力を中心とする異民族の攻勢からよく自己を保ち、9世紀後半から10世紀のマケドニア朝において最大の繁栄をみるにいたった。

まず、イサウリア朝(シリア朝)(717〜802)の開祖レオン3世とその子コンスタンティノス5世は、小アジア地方に侵入するアラブ・イスラーム勢力を一掃し、以後の戦いを国境での局地戦に限定することに成功した。また両帝は、聖像崇拝を厳禁する宗教政策(イコノクラスム)をとって聖像崇拝派の修道院を弾圧した。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
717年ビザンツ帝国 イサウリア朝 @Wikipedia

それは修道院の所領を中心に進展しつつあった大土地所有を抑えるための戦いでもあったが、結果的には国内の混乱をひきおこし、ローマ教皇との関係も悪化させた。
8世紀の末、エイレーネー(東ローマ女帝)は聖像崇拝を復活し、その後一時論争が再燃したものの、843年には聖像崇拝が正当と認められ論争は終わった。これにより、教義面でのローマ教会との関係は修復されたが、1世紀におよぶ対立の間にローマ教会は次第にフランク王国に接近するようになり、カールの西ローマ皇帝戴冠(カール大帝)によってビザンツ皇帝から事実上自立していった。
国内の混乱を収拾したビザンツ帝国では、スラブ人への布教活動が本格化し、ブルガリアとセルビアの改宗が達成されたが、ブルガリアはやがてビザンツの北辺を脅かす強大な勢力となった。

バシレイオス1世に始まるマケドニア朝(867〜1057)において、ビザンツ帝国の軍事力は大いに伸長し、イスラームの支配下にあった南イタリアおよびクレタ島を奪回するとともに、バシレイオス2世によりブルガリア(第一次ブルガリア帝国)も滅ぼされ、その領土はビザンツに編入された。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
867年ビザンツ帝国マケドニア朝 Source: Wikipedia

帝国の版図は、東方はティグリス・ユーフラテス両河上流、北方はドナウ川に達し、新しい征服地には軍管区制が導入された。こうして、帝国に平和がもたらされ、宮廷を中心に古典文化の復興がみられたが、繁栄の陰で社会の変質が始まっていた。すなわち、小アジア一帯で大土地所有が進展し、帝国を支えてきた自由農民が没落していったのである。

中期ビザンツ帝国 ビザンツ帝国の最大領土(1035)地図
ビザンツ帝国の最大領土(1035)地図 ©世界の歴史まっぷ
そして、バシレイオス2世が亡くなると(1025)、大所領を擁する貴族勢力を中心に宮廷の内紛が起こり、ブルガリアやセルビアの反乱も加わって帝国は再び混乱した。
そのころ、東方ではセルジューク朝が小アジアに進出、西方でもノルマン人が南イタリアに進出するなど外敵の攻勢が激化し、ビザンツは後退を余儀なくされた。
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1205年ビザンツ帝国マケドニア朝 Source: Wikipedia

特に、1054年コンスタンティノープル総主教がローマ教皇庁と断絶したことは、南イタリア支配の維持を困難なものにし、まもなくノルマン人に奪われた。

この結果、キリスト教世界はローマ・カトリック教会とギリシア正教会とに分裂した。