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13植民地地図 ©世界の歴史まっぷ

北アメリカの植民地

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北アメリカの植民地

1607年ジェームズ1世(イングランド王)から特許状をえたロンドン会社がヴァージニアに北米初の植民地建設。絶対王政下の抑圧を逃れメイフラワー号で渡航したピルグリム・ファーザーズ(ピューリタン)の一団がプリマス植民地建設。クェーカー教徒のウィリアム・ペンによりペンシルヴァニアなどが建設され、13のイギリス植民地が成立した。

北アメリカの植民地

15世紀末のカボット父子( 新大陸の発見)の北米海岸探検、1580年のウォルター・ローリーのヴァージニア植民地建設の試み( エリザベス1世と植民地帝国への端緒)などがあったが、イギリスの北アメリカ植民地建設が本格化したのは17世紀である。植民事業は国王から特許状をえた会社や個人領主により進められた。1607年ジェームズタウンを建設しヴァージニア植民地の建設を始めたのは、ジェームズ1世(イングランド王)から特許状をえたロンドン会社であった。

1620年、プリマス植民地がピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)の一団により建設された。彼らは、信仰の自由を求めてステュアート朝絶対王政下の抑圧を逃れ、メイフラワー号でヴァージニアの北部に渡航、植民地建設を始めたのである。彼らは上陸に先だって船内でメイフラワー契約を結んで、みずから政府を組織し、法律をつくり、たがいにそれらを尊重することを誓った。1630年には新たなピューリタンがマサチューセッツ植民地を建設、植民地議会をつくり自治を発展させた。プリマス・マサチューセッツなどを中心に形成されたニューイングランドの植民地のピューリタニズム(清教主義)、信仰の自由、民主主義などは、アメリカ合衆国の精神的風土の中に発展的にうけつがれていく。

ニューイングランド:マサチューセッツとそれから分離したコネティカット・ロードアイランド、それにニューハンプシャー・メイン・ヴァーモントを加えた合衆国北東部をさす。

植民地は与えられた特許状の内容により、総督や植民地議会が住民により選ばれる自治植民地、特許状をもつ領主が総督などを任命する領主植民地、王が総督を任命する王領植民地の3種があり、しだいに王領植民地が増えたが、住民代表で構成される植民地議会には大幅な自治が与えられていた。

17世紀には、旧教徒が移住したメリーランド、クェーカー教徒のウィリアム・ペン(1644〜1718)によりペンシルヴァニアなどの植民地が建設され、1732年のジョージアの建設により北米の東海岸部には13のイギリス植民地が成立した。

クェーカー教徒:17世紀、イギリスに生まれた新教の一派。正式にはフレンド教会という。祈りのとき宗教的感激で身を震わせるので Quaker(震い派)と呼ばれる。平和主義の立場で戦争に絶対反対、良心的兵役拒否をおこなう。

これらの植民地成立の事情はさまざまであるが、宗教的寛容、政治的自治、経済的自由などを求め、本国から多くの人々が移住してきた。植民地では北部の造船・漁業・製造業、中部の製鉄、南部の大農場(プランテーション)経営によるタバコ・藍・米などの産業が発展した。

アメリカ合衆国の奴隷制の始まり

タバコ栽培は大量の労働力を必要とした。1619年、黒人奴隷20人がヴァージニアに輸入されたが、その後の40年間に連れてこられた黒人は300人程度であった。最初は単調な重労働も白人の年季公人の労働に頼っていた。1679年に王立アフリカ会社が設立され、イギリス人が奴隷売買独占権を手に入れ、黒人奴隷貿易が大規模におこなわれるようになった。1680年代には、10年間に6万の黒人奴隷がヴァージニアに輸入された。奴隷を購入したのは南部であるが、奴隷運搬船を建造し、アフリカから黒人を運んだのは北部の人間であった。ニューイングランドの港町の船首には、奴隷貿易で富をつくったものがかなりいたのである。道徳的立場からの奴隷制に対する反対も、富をもつ船首たちの反対で握りつぶされることが多かった。

植民地時代の北アメリカ東部 13植民地地図

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マサチューセッツ植民地とジョン・ウィンスロップ

マサチューセッツ植民地の初代総督ジョン・ウィンスロップ(マサチューセッツ湾植民地知事)(1588〜1649)は、富裕な荘園主で、ケンブリッジ大学出の弁護士でピューリタンの知的エリートであった。彼は設立したマサチューセッツ湾会社そのものを、それまでの植民地特許会社と違い植民地に移した。植民地が本国の株主により支配されることを避け、ピューリタンの信仰で結ばれた植民地を建設しようとしたのである。1630年マサチューセッツに移住したピューリタンは、ウィンスロップを会社の総裁であると同時に植民地の総督に選んだ。自分に従ってきた男女・子ども合わせて500人をこえる人々を、彼は高貴な使命をもった人間家族と考えた。ウィンスロップの厳格なピューリタニズムは、まじめで勤勉な植民地の気風を育てたが、一方では宗教的な不寛容をもたらした。選挙権はピューリタン協会のメンバーに限られ、地域社会もピューリタンを中心とした組織で運営されていた。教会のメンバーになるためにに、その信仰や生活が厳しくチェックされた。そのため、政教分離を主張したロジャー・ウィリアムズや徹底した民主主義を唱えた牧師トマス・フーカーらは、マサチューセッツから分離し、ロードアイランド植民地、コネティカット植民地を建設している。

ウィンスロップ自身は慈悲深く高潔な人柄であったが、彼の死後、ボストンやセイラムで魔女狩りがおこなわれたのも、厳格なピューリタニズムと無関係ではなかった。

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