カタラウヌムの戦い 7.帝国の衰退とキリスト教の成立・発展 西ローマ帝国 ハドリアノポリスの戦い ゲルマン人の大移動とフン人 ゴート族 古代の終末 ハドリアノポリスの戦い 専制ローマ帝国 ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図 ©世界の歴史まっぷ

古代の終末
帝政が進むにつれて農業におけるコロヌスの要素が大きくなり、没落した農民や奴隷から上昇してきた人々がコロヌスとなっていった。彼らは土地とともに売買されたり相続されたりするようになり、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていった。このコロヌス制(コロナートゥス)は中世の農奴制の先駆であり、都市の衰退、田園大所領の独立と合わせて、古代末期社会には封建社会の要素が見出されるようになる。

古代の終末

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オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図
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ヨーロッパの古代世界は一挙に中世に移行したわけではなく、社会の構造の変質にともなって徐々にその特色を失い、終末を迎えた。普通には284年、ディオクレティアヌス(ローマ皇帝)の専制君主制の成立が古代末期の時代の始まりとみなされているが、ギリシア・ローマ古代社会のもっとも顕著な特色であった、ポリス=都市的文化と生活はすでに2世紀から衰え、変質し始めていたといわなければならない。

極限まで拡大していたローマ帝国はひとたび守勢に回ると、国境を絶えずゲルマン人などの異民族に脅かされるようになった。帝国はこれらゲルマン人を平和裡に帝国に移住させたり、傭兵として頼るようになっていったが、長い国境を守るためには多くの軍隊を維持する必要があり、他方、征服戦争が終わって獲得する土地や戦利品がないため帝国財政には大きな負担であった。
軍隊や増加する官僚のために都市に重税が課せられ、また鉱山開発その他の産業が皇帝の独占するところとなって自由な経済活動が妨げられ、内乱と異民族の侵入は内陸の交通路の安全性を奪った。帝国経済全体はこうして衰え、貨幣経済も十分行われにくくなり、経済圏が縮小して自然経済への後戻りすら見られた。ことに西方では都市文化が後退し、富者の田園への離脱と、貧民がそこに保護を求めていく傾向が顕著であった。

農業にも大きな変化が生じていた。奴隷制による経営が非効率であることが認識され、また征服戦争の停止は捕虜奴隷の供給を断つことになって、ラティフンディアや鉱山、手工業生産での奴隷の大量使役は困難になった。奴隷所有者たちは奴隷の地位を向上させたり、労働力を自由人によって補うようになった。

奴隷がどんどん解放されたが、自由人労働者の監督を奴隷が務めたり、奴隷が豊かになって自分の奴隷を所有する例も知られている。

すでに共和政期からコロヌスと呼ばれる小作人が大土地所有者と契約して働いていたが、帝政が進むにつれて農業におけるコロヌスの要素が大きくなり、没落した農民や奴隷から上昇してきた人々がコロヌスとなっていった。彼らは土地とともに売買されたり相続されたりするようになり、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていった。このコロヌス制(コロナートゥス)は中世の農奴制の先駆であり、先に述べた都市の衰退、田園大所領の独立と合わせて、古代末期社会には封建社会の要素が見出されるようになってくるのである。

古代の終末という問題はローマ帝国の衰亡と結び付けられて長く人々の興味をそそり、その衰亡の原因についてさまざまに論じられてきた。18世紀のエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』がその代表的作品で、そこではゲルマン人の侵入と、平和主義的なキリスト教の拡大が没落の原因だと主張された。このほかにもゲルマン人がローマ帝国=古典文化を暗殺したという説は根強く、またローマ帝国の拡大が軍事負担、都市の衰え、奴隷制の衰退を招き、古代は内部の矛盾から崩壊していったとする考え方もある。

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