教会勢力の衰微
ローマ市の寓話的地図 アヴィニョン教皇時代の未亡人としてのローマ人格化を示している。©Public Domain

教会勢力の衰微

中世後期のヨーロッパでは、ローマ教会の堕落に対する批判が各種の異端運動となって現れ、教会側の激しい弾圧を受けた。

教会勢力の衰微

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

異端運動

中世後期のヨーロッパでは、ローマ教会の堕落に対する批判が各種の異端運動となって現れた。

ワルド派

12世紀後半、フランスのリヨンの商人ワルド(1140〜1217)は、資材を貧民に施して人々に清貧と悔い改めを説き、聖書に基づく信仰を主張して教会制度を批判した。この教えを信ずる人たちはワルド派と呼ばれ、南フランスや北イタリアに広まったが、教会側の激しい弾圧を受けた。

アルビジョワ派

また、マニ教の影響下に東方でおこったカタリ派は、純潔の保持と断食などの戒律厳守を説いてバルカン半島に定着し、やがて12〜13世紀の西ヨーロッパ各地に広まった。特に南フランスのトゥールーズ・アルビ両地方では、地方貴族の支持をえてさかんとなり、アルビジョワ派とも称された。異端撲滅を掲げたインノケンティウス3世(ローマ教皇)は、アルビジョワ十字軍(1209〜1229)を提唱、王権の伸張を目指すフランス国王もそれに同調して攻撃したため、衰退した。

1215年、イノケンティウス3世は第4回ラテラン公会議を招集し、第4回十字軍の提唱、司教による異端裁判の制度化などを決定した。これにより、異端審問の非公開や密告制、拷問が現実のものとなった。

教皇のバビロン捕囚

13世紀末にでたボニファテゥウス8世(ローマ教皇)(位1294〜1303)は、国家に対する教会の優位と教皇権の絶対性を主張したが、王権の伸張という現実により打ち砕かれた(アナーニ事件 1303)。

ボニファティウス8世とアナーニ事件

ボニファティウス8世(ローマ教皇)は、1300年キリスト教世界に聖年の布告を発し、ローマのサン・ピエトロ教会に詣でるものに全贖宥しょくゆう(罪の許し)を与えることを宣言。さらに1302年には教書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なる)」で教皇権の絶対性を主張し、教皇権の健在ぶりを誇示した。また、フランス国内の教会領への課税をめぐって、フィリップ4世(フランス王)と対立した。だが、今やカノッサ事件の時とは、時代も状況も異なっていた。いち早く三部会を開いて(1302)その支持を取り付けたフィリップにより、1303年教皇はローマ南方のアナーニで捕らえられ、一時監禁されてしまった。いわゆるアナーニ事件である。教皇は即座に関係者を破門したが効果なく、屈辱のうちにまもなく没した。その後、フィリップは新しい教皇に圧力を加えて、1302年の教書の撤回とアナーニ事件関係者の赦免を認めさせた。

その後ボルドー出身のクレメンス5世(ローマ教皇)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後7代約70年にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれることになった。これを、古代のユダヤ人の苦難になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜1377)という。
1378年、教皇庁はグレゴリウス11世(ローマ教皇)によりローマに戻されたが、彼の死後、新教皇にイタリア人のウルバヌス6世(ローマ教皇)が選出されると、フランス人の枢機卿は対立教皇クレメンス7世(対立教皇)をたて、アヴィニョンに再び教皇庁を設置した。フランス・イベリア諸国・ナポリ・スコットランドなどはアヴィニョン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持したため、ここに教会大分裂大シスマ 1378〜1417)は決定的となり、教皇の権威は失墜した。

宗教改革

教会の世俗化や腐敗はますます進み、各地で教会の改革を求める運動が起こってきた。14世紀後半、オクスフォード大学の神学教授ジョン・ウィクリフ(1320頃〜1384)は、教皇権を否定するとともに、教会が世俗的な富を追求することを厳しく攻撃し、教会財産の国庫への没収を是認した。そして、イングランドの教会及び国王の教皇からの独立を主張した。また教義面では聖書主義を唱え、聖書の英語訳とその普及に努めた。彼の教えは異端とされたが、ランカスター公の保護下に生き延び、国内ではロラード派と呼ばれる人々に信奉され、国外ではベーメンのフスの運動に大きな影響を与えた。

フス派

ウィクリフの説に共鳴したヤン・フス(1370頃〜1415)は、プラハ大学の神学教授として教会の土地所有や世俗化を厳しく非難、聖書のチェコ語訳に努めるとともに、チェコ語による説教により民衆の心をつかんだ。だが、ローマ教皇の贖宥状しょくゆうじょう販売を批判して破門され、ドイツ皇帝ジギスムント(神聖ローマ皇帝)の提唱したコンスタンツ公会議に召喚されることになった。この会議では、統一教皇の選出により教会大分裂を終結に導いたが、フスを異端として焚刑に処した(1415)ためフス派の怒りをかった。そして、ジギスムント(神聖ローマ皇帝)がベーメン王を兼ねると、フス派を中心とするプラハ市民は反乱に立ち上がった(フス戦争 1419~1436)。
こうしたウィクリフヤフスの思想と行動は、のちの宗教改革の先駆となった。

フス戦争

フス派にはプラハの都市貴族、大学を中心とした穏健なウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士などからなる過激なターボル派があったが、当初はカトリック教会や皇帝軍に共同で対処し、度々皇帝軍を打ち破り(1420〜1431)、一時は国外にも進撃する勢いを示した。しかし、カトリック側がバーゼル公会議で妥協的な和平案を出すとしだいに対立するようになり、結局ターボル派はウトラキスト派とカトリック教会連合に敗れ、1436年穏健派と教会の間で和約が成立した。このフス戦争は、ドイツの支配に対するチェコ人の民族運動としての性格をもっていた。

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