清代の社会経済と文化
広州の風景 各国の国旗を掲げた外国商館が見える。清は南京条約の成立まで貿易港を広州1港に限定したので、ヨーロッパ人との貿易で大いに繁栄した。©Public Domain

清代の社会経済と文化

清代の社会経済と文化

対外交易

明の洪武帝は海禁政策をおこなったが、つづく永楽帝鄭和を南海に派遣し、一時南海交易が積極的におこなわれた。しかし永楽帝の死後、再び海禁政策が復活した。明は、朝貢国に対して勘合符を与えて正式な朝貢船の証明とし、広州・泉州・寧波ニンポーに市舶司をおいて朝貢貿易を管轄するとともに、中国人の海外渡航を禁止した。

1517年、ポルトガル人が広東カントン付近に来航したのを契機に、その後スペイン・オランダ・イギリスの商人が相ついで来航したが、明朝は朝貢貿易の姿勢をくずさなかった。このように厳しい海禁政策がおこなわれていたが、しかし広東・福建などの民衆は海禁を犯して、東南アジアへ移住する者が現れ、のちの南洋華僑のもととなった。

1644年の明滅亡後に北京に入り中国支配を進める清朝は、台湾に根拠地を移して反清運動を続ける鄭成功に対し、中国船の渡航を厳禁する政策をとり(遷界令せんかいれい)、大陸との交通を断ち独立させようとした。この政策は鄭氏一族を滅ぼした1684年に解除された。さらに1685年には広東・福建などに海関かいかん(税関)を設け、海外貿易を統制した。当初の貿易相手は、すでに明朝末から来航していたポルトガル・スペイン、さらにその後に来航してきたオランダ・イギリスなどであった。イギリスは18世紀になるとポルトガル・スペインなどを圧倒して、中国貿易を独占した。そして東インド会社をとおして中国の生糸や陶磁器・茶などを輸入したが、その代価は銀で支払われ、その額は巨額にのぼった。このためがいっそう中国内に流入した。

乾隆帝は、康熙帝時代の典礼問題などもあって、1757年、ヨーロッパ人との貿易を広州(広東)の1港に限定し、藩属国の朝貢貿易と同じように品目・数量・来航数などを一方的に制限し、さらに公行こうこうと呼ばれる少数の特許商人に貿易管理のいっさいを任せた。こうした制限された交易や公行による貿易の独占に対してイギリスは、18世紀末から19世紀前期にかけてマカートニー(1737〜1806)やアマースト(1773〜1857)を派遣して、制限貿易の撤廃を求めたが失敗し、こうした体制はアヘン戦争後の南京条約(1842)まで続けられた。

税制

清朝の税制は、はじめ明朝の一条鞭法いちじょうべんぽうをうけついでおこなっていいたが、社会が安定し人口が増加すると、康熙帝は1711年の壮丁そうてい(成人)数を基準として、それ以降に増加した人口を盛世慈生人丁せいせいじせいじんていとして丁税(人頭税)の課税対象から除外することを決めた。このため、それまで税から逃れていた人々が戸籍登録をおこなうようになり、人口が飛躍的に増大した。こうして人頭税にあたる丁銀(丁税)の定数が固定化されると、丁銀を地銀(土地税)のなかにくりこむことが可能となり、次の雍正帝のとき、丁銀を地銀にくりこんで一括徴収する地丁銀制が成立し、さらに乾隆帝の時代に全国へ広がった。地丁銀制は、それまでの人頭税の徴収が廃止され、土地のみを対象とした税制が確立したことを意味する。

18世紀の人口急増による食料問題を支えたのが、16世紀後半アメリカ大陸から伝来したトウモロコシ・サツマイモ(甘藷かんしょ)・ジャガイモ(馬鈴薯ばれいしょ)・落花生などの輸入作物であり、これら作物は山間部でも栽培が可能で、山地の開墾を促した。ちなみに、サツマイモは琉球をつうじて日本へも伝わった。

清初の編纂事業

清は異民族王朝であるが、積極的に中国文化を重視した。中でも康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3皇帝は、豊かな財力を背景に学芸を奨励して漢人学者を優遇し、多くの大規模な編纂事業をおこした。康熙帝時代には明朝の歴史書である『明史みんし』(322巻、完成は乾隆帝時代)や『康熙字典』(42巻)・『佩文韻府はいぶんいんぷ』(106巻)などの辞書類、古今の文献から関係事項をとりだして分類した類書の『古今図書集成ここんとしょしゅうせい』(1万巻、雍正帝のとき完成)が編纂され、乾隆帝時代には『四庫全書しこぜんしょ』(7万9582巻)と、満州・漢・蒙(モンゴル)・蔵(チベット)・回(トルコ)の各語を対比させた辞書の『五体清文鑑ごたいしんぶんかん』が編纂された。

清が漢人学者を動員してこのような大規模な図書の編纂事業をおこなわせたのは、学者を編纂事業に没頭させて政治的な関心から目をそらせるとともに、中国内に残る異民族を敵視する反清的図書を検閲・没収する意味が含まれていた。ことに『四庫全書』編纂の際には、539種・1万3800巻あまりが禁書として焼却された。

四庫全書

乾隆帝の1773年から10年を費やして、古今の書物を全国から集め、経・史・子・集の4部(四庫)に分け、分類編集した一大類書。全3462種、7万9582巻。『四庫全書』のなかには、日本の江戸時代の太宰春台だざいしゅんだいや、イエズス会宣教師アダム・シャール、フェルディナント・フェルビーストらの著述も含まれている。手書きによって都合7部が作成され、皇帝用として北京の宮中や離宮などに4部が、民間の学者のために江南地方に3部が、それぞれ所蔵・保管された。現在ではそのうち2部が現存しており、学術面に大きく貢献している。
四庫全書
四庫全書(部分)©Public Domain

考証学

清朝は漢人学者を優遇する反面、清朝政府や異民族に対する排斥思想を厳しく取り締まった。文字の獄や禁書はその現れであるが、そのため政治的論理を必要としない古典研究が栄えることとなった。このような学問を考証学といい、本来は儒教研究のひとつの方法であった。明末の黄宗羲こうそうぎ(1610〜1695)や顧炎武こえんぶ(1613〜1682)は、陽明学が空論化したことに反対して、儒教経典中の文献学的批判をおこない、書かれた当時における文字の意味を明らかにし、経典本来の原義を理解しようとするものであった。こうした研究方法では、漢代の注釈が尊重されたことから、考証学は宋学に対して漢学ともいわれた。考証学は黄宗羲や顧炎武をついだ明末清初の閻若璩えんじゃくきょ(1636〜1704)にいたって確立され、その対象も儒教経典のほか、歴史学・歴史地理学・金石学・音韻学などの各分野に広がった。その後、乾隆帝・嘉慶帝時代を中心に、戴震たいしん(1723〜1777)・銭大昕せんたいきん(1728〜1804)・段玉裁だんぎょくさい(1735〜1815)などの著名な考証学者が現れ、「乾嘉の学」と称されて全盛を迎えた。しかし清が厳しい思想・言論統制をおこなったこともあって、危険をさけてささいな考証に終始し、黄宗羲や顧炎武がめざした「経世致用けいせいちよう」の面はしだいに失われた。

このような学問のための学問となった考証学に対し、乾隆時代の後半からは儒教経典の『春秋』に注釈書のひとつである『春秋公羊伝しゅんじゅうくようでん』を正統として、そのなかにみえる孔子 古代思想界の開花)の思想を現在に実行しようとする公羊学派がおこった。『春秋公羊伝』を正統としこれを研究する公羊学は、すでに漢代にみられたが、その後はおこなわれず、清になって復活したものである。公羊学は江蘇省出身の荘存与そうそんよ(1719〜1788)によって始められ、清末の政治家で変法自強へんぽうじきょうの推進者となった康有為こうゆういに大きな影響を与えた。

庶民文化

明朝の庶民文化の繁栄をうけて、清代でも長編小説や戯曲・芸術を中心に庶民文化が栄えた。長編小説では、没落する貴族の生活を中心として描き、清代最高の傑作といわれた曹雪芹そうせつきん(1724〜1763)の『紅楼夢こうろうむ』、科挙を風刺し官吏の腐敗をあばいた敬梓ごけいし(1701〜1754)の『儒林外史じゅりんがいし』があり、短編小説では怪談を集めた蒲松齢ほしょうれい(1640〜1715)の『聊斎志異りょうさいしい』がある。戯曲では、唐の玄宗と楊貴妃を主題にした洪昇こうしょう(1659〜1704)の『長生殿伝奇ちょうせいでんでんき』や、孔尚任こうしょうじん(1648〜1718)の『桃花扇伝奇とうかせんでんき』などがある。

宣教師の来航

マテオ・リッチをはじめとして、明末から清初にかけて多くのイエズス会宣教師が中国に来航した。1622年に中国へ来たドイツ人宣教師アダム・シャール(湯若望とうじゃくぼう 1591〜1666)は、1627年北京で布教活動をおこない、崇禎帝すうていていに召され、徐光啓とともに西洋の暦法によって新たに『崇禎暦書』を作成した。また当時明は清軍の侵略をうけていたときであり、シャールは大砲の鋳造にも従事した。明が滅んで清が中国を支配すると、シャールはひきつづき清に仕え、『崇禎暦書』を改訂して、新たに『時憲暦じけんれき』を作成し、さらに順治帝のとき欽天監正きんてんかんせい(天文台長官)に任じられた。

康熙帝と宣教師

清初の全盛期時代をつくりだした康熙帝は、在位61年におよび、唐の太宗とならび称される名君である。彼は強健な体をもち、酒もタバコも飲まず、昼夜勉学にいそしみ、在位中変わらない生活を続けたという。彼はキリスト教宣教師がもたらす西洋学術に非常に興味をもち、マテオ・リッチの『幾何原本』を読み、フェルディナント・フェルビーストから天文学・数学・統計学などの講義をうけた。さらにジョアシャン・ブーヴェやレジスらに命じて『皇輿全覧図こうよぜんらんず』をつくらせた。ブーヴェが一時フランスに帰国する際、康熙帝は太陽王ルイ14世に漢籍49冊を贈呈させたという。東西の大国の主が、宣教師をつうじて交流したのは、興味深いことである。

ベルギー人のフェルディナント・フェルビースト南懐仁なんかいじん 1623〜1688)は、清初の1659年に中国へ渡り、シャールの補佐をして欽天監の副長官となり、暦の改訂に従事した。その後、康熙帝に天文学や数学を進講し、リッチの『坤輿万国全図こんよばんこくぜんず』を一歩進めた『坤輿全図こんよぜんず』を作成した。さらに三藩の乱がおこると( 清朝の統治)、大小の大砲120門をつくり乱の平定に大きく貢献し、工部侍郎こうぶじろう(次官)の称号と厚遇を与えられた。

フランス人ジョアシャン・ブーヴェ白進はくしん(白晋)1656〜1730)は、ルイ14世の命によって中国に派遣され、1685年北京に到着した。康熙帝に仕え、幾何学や天文学などを進講し、いったんフランスに帰国して新たな宣教師を連れて再び北京にもどった。その後、レジス(雷孝思らいこうし 1663〜1738)らとともに清の領域を実地測量して『皇輿全覧図こうよぜんらんず』を作成した。なお、ブーヴェはフランスに帰国した際に康熙帝の伝記である『康熙帝伝』を刊行したため、康熙帝の名がヨーロッパに知られることとなった。

イタリア人ジュゼッペ・カスティリオーネ郎世寧ろうせいねい 1688〜1766)は、1715年北京に入り、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3皇帝に仕えた。彼は油絵や写実的技法、さらに遠近法・明暗法などの技法を伝え、中国絵画に大きな影響を与えた。また、乾隆帝が北京郊外につくらせた離宮である円明園えんめいえん内の西洋風宮殿・庭園の設計にも加わった。

典礼問題

明末から清初に中国に来航したイエズス会宣教師は、積極的に西洋学術などを紹介しながら布教活動をおこない、その結果、明末には15万人もの信者が数えられるようになった。それは彼らが中国内での布教活動促進の一手段として、中国の伝統文化を重んじ、中国語を習得して古典を研究し、自ら儒学者の服装を着用したからである。さらに彼らは、儒教でいう天帝・上帝はキリスト教の神(デウス Deus)と同じであるとして、中国人信者が依然としてやめない孔子の崇拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼(典礼)をも容認したのである。

ところが、イエズス会宣教師により遅れて中国へ来航したドミニコ派やフランチェスコ派の宣教師たちは、こうしたイエズス会の布教活動に対し、キリスト教の教義に違反するものであるとして激しく非難し、ローマ教皇に訴えた。これを「典礼問題」といい、激しい論争の結果、クレメンス11世(ローマ教皇)は1704年、中国の典礼を受け入れたイエズス会の布教活動を禁じた。これを知った康熙帝は大いに怒り、典礼を認めるイエズス会宣教師以外の布教活動を禁じ、他派の宣教師を追放する決定をくだした。さらに雍正帝は、福建省でおきたドミニコ派宣教師に関する事件をきっかけに、1724年キリスト教布教禁止の命をだした。このため、朝廷において学問や芸術などの特殊な仕事に関わっている宣教師以外は中国移住が認められず、マカオに追放となった。

こうして中国におけるキリスト教の布教活動は禁止されたが、日本の場合とはことなり、それほど徹底したものではなく、地方官も厳しくは取り締まらなかったことから、ひそかに宣教師が中国内へ侵入して、ほそぼそと布教活動をおこなっていた。

中国文化のヨーロッパへの影響

イエズス会宣教師をつうじて紹介された西洋学術は、中国文化に大きな影響をおよぼした。しかし彼ら宣教師も中国の制度・文化を積極的にヨーロッパに紹介し、各方面に大きな影響を与えた。たとえば、科挙制度は高度な官吏登用方法と考えられ、その影響でイギリスやフランスでは高等文官試験制度が始められた。また朱子学はヨーロッパの学者に歓迎され、ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツに影響を与え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールに高く評価された。特にヴォルテールは、孔子を崇拝していたという。フランスのフランソワ・ケネーの重農主義にも中国の道家思想や農本主義が大きく影響している。陶磁器をはじめとする工芸品は、ロココ式芸術に取り入れられ、またフランスのルイ14世は中国風のトリアノン宮殿をたて、マリー・アントワネットは宮殿に中国家具がおかれた部屋をもっていた。さらに中国の造園術は、フランスのヴェルサイユ宮殿にも影響を与えた。

イエズス会宣教師たちによって紹介された中国文化は、17〜18世紀のヨーロッパに大きな影響をおよぼしたが、これをうけておもにフランスを中心に、中国の歴史や文化を研究対象とするシナ学(シノロジー Sinology)が発達し、また17世紀後半から19世紀初頭にかけての美術にも影響を与え、シノワズリ(中国趣味)として流行した。

清代の中国と隣接諸地域流れ図

清代の中国と隣接諸地域流れ図
清代の中国と隣接諸地域流れ図 ©世界の歴史まっぷ
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