義和団事件
義和団は扶清滅洋のスローガンを唱えて広がり、1900年6月北京の各国公使館を包囲。西太后ら清朝保守排外派は義和団を支援し各国に宣戦布告。日・露・独・オーストリア・英・仏・伊・米は共同出兵し北京を占領、在留外国人を救出。
義和団事件
さきの北京条約( アロー戦争)によって、キリスト教の布教が公認され、教会が中国内地の農村にもたてられるようになると、清朝の地方官憲や民衆と、宣教師・信徒との間にしばしばトラブルが発生した。また鉄道の敷設は大量の外国製品の流入をもたらして、地方ごとにあった伝統的な手工業の生産機構を破壊し、民衆の生活を不安に陥れた。とくに日清戦争後の帝国主義列強の露骨な中国侵略の動きは、民衆の排外感情をいっそう刺激することとなった。このため、変法運動が展開されるのと同じころ、民衆の間では、その日常生活にまで入りこんできた外国勢力に対する排撃運動の波がしだいに高まっていった。地方各地に入っていったキリスト教会は、しばしば農村社会の伝統的慣習と対立する言動をとり、また本国の帝国主義的侵略を積極的に手助けする運動をおこなったものもあった。このため、民衆の排外運動は、とくに教会打ちこわしや宣教師・信徒の襲撃といった反キリスト教運動となって現れた。このような反キリスト教運動を仇教運動という。
仇教運動の背景
教会や中国人キリスト教信徒(教民)は、その教えに従って、先祖神や村の神々の尊崇を拒否し、村の祭礼への参加や寄付を拒否した。これは昔ながらの農村の伝統的世界に生きる一般の中国民衆にとって、たいせつな村の共同体意識をふみにじる許しがたい行為であった。また、山東省で活動したドイツ聖言会などは、強引な布教活動に対する民衆の反抗に対して、ドイツ軍の出兵を要請し、村落の焼き討ちや、多額の賠償金取り立てをもって臨むなど、きわめて侵略的な性格をもっていた。こうしたことが中国民衆の激しい反キリスト教運動を呼びおこしていったのである。
清末の華北一帯では、帝国主義列強の圧迫による世情不安と生活の窮迫を背景として、秘密宗教・武術結社に入会する民衆が増えていった。上述の仇教運動も、こうした秘密宗教・武術結社に指導されたものが多かったのである。たとえば、ドイツの膠州湾占領のきっかけとなった山東省でのドイツ人宣教師殺害事件は、秘密結社大刀会によるものであった。このような秘密宗教・武術結社のなかでも、山東省でおこった義和拳は、白蓮教系の八卦教の流れをくみ、拳法や棒術を熱心に修練し、お札を呑み呪文を唱えれば、刀剣や銃弾をもはねかえすことができる(「刀槍不入」)と称して、多数の熱狂的信者を集めていった。義和拳は、元来白蓮教の流れをくむところから、仇教とともに反清的傾向が強かった。一方、清朝の地方官憲が義和拳を排外運動に利用しようとして、これを団練(地方自衛軍)として公認し、ひそかに支援する態度をとったことから、彼らは新たに義和団の旗を掲げ、「扶清滅洋」(清朝を扶け、西洋人を撃滅する)のスローガンを唱えるにいたった。こうして義和団は、山東から直隷(北京を含む現在の河北省)一帯に広がり、1900年には大挙北上して天津・北京に迫る勢いとなった。同年6月、義和団はついに北京に入り、各国公使館を包囲すると、これを好機と判断した西太后ら清朝保守排外派は、義和団を支援して各国に宣戦を布告した。これに対し、日本・ロシアを主力とするドイツ・オーストリア・イギリス・フランス・イタリア・アメリカの8カ国は、在留外国人の保護を名目に共同出兵にふみきり(8カ国共同出兵) ❶、8月、抵抗を排除して北京を占領し、在留外国人を救出した。以上の経緯を義和団事件(北清事変、1900〜1901)という。
義和団の世界
義和団では「刀槍不入」のほかにも、修練によって関羽や孫悟空などの民衆に馴染み深い英雄や神々をわが身に乗り移らせることができるなど、さまざまの不可思議な術が宣伝された。これらは、惨めな日常からの飛翔を願う民衆の熱狂と幻想が生みだした産物であった。そうした熱狂と幻想のなかで、民衆は外国勢力の侵入によって破壊された伝統的村落の共同体意識にかわる、親しく懐かしい連帯と共同体の意識をとりもどし、同時に彼らを縛りつけていた既存のあらゆる価値体系からの解放を味わったのである。義和団において、戦闘の中心にたったのが、大人ではなく10代の青少年であったこと、鮮やかな紅で身を装った少女による「紅橙照」という組織がつくられたことなどに、既存の価値体系から解放されて、のびのびとふるまう民衆の世界を見ることができよう。しかし、こうした義和団の世界は、帝国主義的な利害の論理にたつ列強の近代兵器のまえに、文字どおり粉砕された。義和団事件の際、日本軍は清朝の国庫に押し入って大量の銀を略奪したが、それでも日本軍は連合国 軍中もっとも「起立厳正」だったと伝えられる。
義和団鎮圧後の1901年、敗れた清は列強との間に北京議定書(辛丑和訳を締結し、巨額の賠償金を支払い(総計9億8000万両)、北京周辺の軍備撤廃、外国軍隊の北京駐兵権などを認めさせられた。この和訳では新たな領土の割譲こをなかったものの ❷ 、列強の中国に関する干渉はさらに強まり、中国の半植民地化はいよいよ決定的なものとなった。
❷ 列強が領土割譲による中国再分割をおこなわなかったのは、義和団に現れた中国民衆の強烈な抵抗のエネルギーをみて、分割を強行して第2、第3の義和団を招くより、中国の統治は清朝に任せて、もっぱら経済的利潤を吸いあげるほうが上策と判断したことによる。