紀元前550年、アケメネス家のキュロス2世がメディアを倒して独立王国を樹立。リディアを、新バビロニアを滅ぼしたあと、その子のカンビュセス2世は紀元前525年にエジプトを征服、第3代のダレイオス1世の時代には、東はインダス川より西はエーゲ海北岸、南はエジプトまでを含む大帝国に発展した。
紀元前330年、アレクサンドロス3世の遠征軍に敗れたダレイオス3世の死をもって、アケメネス朝は滅亡した。
アケメネス朝
いったん崩壊した古代オリエント世界の統一を回復したのは、アケメネス朝(紀元前550年〜紀元前330年)であった。これはイラン高原南西部のファールス地方にいたインド=ヨーロッパ語系のイラン人がたてた国で、ペルシアの名はこの地方名に由来する。
ペルシア人たちは同じくイラン系のメディアの支配下におかれていたが、アケメネス家のキュロス2世(在位紀元前559〜紀元前530)が紀元前550年にメディアを倒して独立王国を樹立した。彼がさらに紀元前546年にリディアを、紀元前538年に新バビロニアを滅ぼしたあと、その子のカンビュセス2世は紀元前525年にエジプトを征服し、第3代のダレイオス1世の時代には、東はインダス川より西はエーゲ海北岸、南はエジプトまでを含む大帝国に発展した。
ダレイオス1世は全国を20余りの州に分け、各州にサトラップ(知事)をおいて統治するとともに、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を配置して情報収集に努めた。また全国の要地を結ぶ「王の道」と呼ばれる軍道を整備し、駅伝制をしいて中央集権の強化をはかった。経済面では、金貨・銀貨を鋳造し、税制を整える一方で、海上ではフェニキア人、陸上ではアラム人による商取引の便をはかっている。
服従した異民族に対しては、バビロニアに捕らわれていたユダヤ人の処置にみられるように、それぞれの伝統・文化を尊重し自治を認めるという、寛容な政策をとった。こうしたやり方は、アッシリアの帝国支配方法の多くを継承しながらも、その欠点を改めたもので、広大な多民族国家を統治するにはきわめて有効であった。ダレイオス1世によってひきおこされたギリシア人を相手とするペルシア戦争が、その子クセルクセス1世のとき失敗に終わったにもかかわらず、その後なお1世紀半も帝国が維持されえたのは、この支配体制の巧妙さのためであった。しかし紀元前4世紀に入ると各地にサトラップの反乱がおこり、ついにアレクサンドロス3世の遠征軍に敗れたダレイオス3世の死をもって、アケメネス朝は滅亡した。
ペルセポリス
ダレイオス1世は新年祭を行う場所として、それまでのバビロンのかわりに、ペルセポリスに離宮と祭儀場の建設をはじめた。一年の豊穣を祈願する新年祭は、シュメール・アッカド以来の伝統を受け継ぐ最重要行事であった。代々のペルシア王は日常はスサにいて、新年祭のためにだけここに滞在した。のちにアレクサンドロス3世によって焼き払われて廃墟となった。
ペルシア人は、シュメール以来のメソポタミア文明の伝統をうけつぐ一方で、領内の諸民族の文化を統合して、より高い世界文明を築こうとした。ペルシア語を表記するためには、楔形文字を表音化して用いるペルシア文字を工夫した。
公用語としては、ペルシア・エラム・バビロニアの3語のほかに、国際商業語となっていたアラム語が採択された。彼らが信仰したゾロアスター教は、メディア生まれの宗教改革者・ゾロアスター(紀元前7世紀後半?-紀元前6世紀前半?)が、古代イランの二元論的な民族宗教を救済宗教へと高めたものである。
それによれば、この世では善(光明)の神・アフラ=マズダと悪(暗黒)の神・アーリマンが絶え間なく戦っているが、最期に悪は敗北し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判をへて救済されるとした。ユダヤ人はここから二元論的終末論を採用し、のちにそれはキリスト教にも受け継がれた。このほか、光明神のミトラや水神で大地母神のアナーヒターの信仰も行われた。