アテネ民主政
ペリクレスは、成人男性のみが参政権をもつ最高機関の民会を農民級にまで開放し、役職も五百人評議会の議員もくじで公平に選び、民主政を徹底させたが、自身は公的生涯のほとんどをストラテゴス(将軍職)の地位で国政を指導した。
アテネ民主政
アテネは他のポリスに対しては強い支配権を振るうようになったが、国内においては徹底した民主政を実現させていった。ペルシア戦争の時艦船の漕ぎ手として勝利に貢献した下層市民の発言権が高まり、貴族内でも民主派が台頭してきた。紀元前461年寡頭派のキモンが失脚し、民主派のエフィアルテスが一種のクーデターによってアレオパゴス会議の権限を弱めた。
ペリクレスの時代
ペリクレスはその公的生涯のほとんどの間、この将軍の地位にあって国政を指導したのである。彼はペルシアの侵入で破壊されたアクロポリスの再建に努め、フェイディアスらの建築家が協力してパルテノン神殿やエレクテイオン神殿などの美しい神殿が建設された。宗教祭典も華やかに催され、悲劇の上演がさかんになった。市民には観劇手当も支給された。このようにペリクレスの時代、アテネは都市の外観も民主政の体制も絶頂期に達したが、そのためにはデロス同盟の多額の資金が費やされたのである。
アテネの民主政は他のポリスにも波及したが、それはもちろん今日の民主政治とは異なり、直接民主政で政党はなく、なによりも成人男性市民のみにしか参政権が認められていなかった点で特徴的である。女性と奴隷は政治から排除されていたし、ポリスに居住する外国人(メトイコイ)は参政権はもちろん不動産所有すら禁じられていた。しかもペリクレスの時代(紀元前450年ころ)に制定された市民権法は、両親がアテネ市民もしくはアテネ人女性でない限り市民権を所有できないと定めていた。内において徹底した民主政を実現したアテネは、市民以外の人々や他のポリスに対してはきわめて排他的な姿勢を示していたのである。
ギリシアの奴隷制度
ポリス社会は奴隷の使用を当然のこととみなし、また奴隷の労働は多くの市民の生活にとっては不可欠であった。奴隷は自分たちの共同体を失い、家族をもつことも許されない、理論的には人格も認められない、「物言う道具」(アリストテレス)であった。ギリシアと古代イタリアには世界史上でも類をみないほど奴隷制が発達した。捕虜や、借財のために奴隷として自らを売り転落した市民、奴隷として輸入された小アジアや東方・北方の異民族が、奴隷商人によって売買された。デロス島などには大きな奴隷市場があった。とくにアテネでは極めて多くの奴隷が用いられ、紀元前5世紀には奴隷が人口の3分の1を占めたといわれる。奴隷の中には公共の仕事につくものもいたが、多くは市民の家内奴隷として農耕や家事に従事した。ギリシアではのちのローマにみられるような大規模な奴隷農場はみられず、わずかに鉱山で大量に使役された程度であった。普通の市民は奴隷とともに農業や建築労働をおこなった。富裕な市民は手工業の作業所で奴隷を働かせたが、人数は、古典期のアテネでも一つの作業所に20〜100人程度であった。また自分の所有する多数の奴隷を、作業所や鉱山に貸して利益を得る市民もいた。奴隷は解放されることも珍しくなかったが、解放奴隷には市民権は与えられず、在留外人と同じ身分におかれた。
スパルタなどでは、奴隷的な隷属農民がいたためにアテネのような購買奴隷制は発達しなかったが、アテネ・コリントスなどの商業が発展したポリスでは生産労働を多くは奴隷に頼った。このように奴隷がギリシアにとっては周辺・近境の異民族から供給されることが当然のことと思われて、ギリシア人たちの異民族への軽蔑の念がいっそう強まり、また農業以外の労働を重要視しない傾向が生まれたのである。