中国と西方との中継貿易が始まってから「絹の道」の要所に立地するオアシス都市は急速に発達した。隊商によって経済活動が刺激され、富が蓄積されてくると、これを守る城壁がつくられ、人口も増加し、統治組織や防衛組織が整えられて、やがて都市国家に成長した。
オアシス都市国家
中国と西方との中継貿易が始まってから「絹の道」の要所に立地するオアシス都市は急速に発達した。隊商によって経済活動が刺激され、富が蓄積されてくると、これを守る城壁がつくられ、人口も増加し、統治組織や防衛組織が整えられて、やがて都市国家に成長した。
中央アジアの都市国家は、パミール高原を境として、東のタクラマカン砂漠を中心とする東トルキスタンのオアシス都市国家と、西のシル川、アム川流域を中心とする西トルキスタンに発達したオアシス都市国家とに分けられる。
これら両地域に発達したオアシスは、天山山脈やパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈などの雪解け水を水源として発達したものである。
東トルキスタンのオアシス
東トルキスタンのオアシスは、人類の常住が困難な砂漠や草原の中で、相当数の人口を支えることのできる定住集落に発達したものが多い。そこでは、泉、井戸、水無し川、あるいは直接に川から水を引くなどして水をえて農耕がおこなわれた。最初は集落に過ぎなかったものが、やがて城壁をまわりにもった都市国家に成長したものが多く、住民の大部分はインド=ヨーロッパ語系の人々であった。集落の大きさは、水がどの程度得られるかによっており、大きなものでは、クチャ(亀茲)が人口10万を数え、カラシャール(焉耆)、アクス(姑墨)、カシュガル(疏勒)、コータン(于闐)などは2万を超えていた。また、小さなものでも人口1000を数えており、その規模はさまざまであった。これらのオアシスは、それぞれひとつの国を形成し、農耕、牧畜をおこない、隊商による中継貿易を経済的基盤にしていた。
西トルキスタンのオアシス
これに対し、西トルキスタンのオアシスは、隊商や旅行者に一時的な飲料水を提供する砂漠中の停泊地としての役割を持ったものが多く、サマルカンドを除けば、東トルキスタンのオアシスより規模が大きかったとはいえない。この地方のオアシスはカナート(カレーズ)と呼ばれるトンネル式水路を通って水源の水を必要地点にまで流し、ここで地上に出して小水路に分配し、灌漑することによって農産物をつくった。
隊商
隊商すなわちキャラバンは、普通十数頭から数十頭におよぶラクダを引き連れていた。これを管理して旅行するものは、数人から数十人である。
ラクダは、馬よりはるかに高価で、これに積んだ商品は貴重なものであったから、全体の価値は莫大で、しかも輸送中における危険度はもっとも高く、そのため隊商を組んでおこなわれた交易は、遊牧民が兼業できるものではなかった。
商売の駆け引き、金融・信用・危険保証などさまざまな要素をもち、それぞれの知識や組織を必要としたので、オアシス都市国家の大商人がとりしきった。ラクダを扱うものも遊牧民ではなく、特殊な技能をもったオアシス民であり、隊商に従事したのもすべてオアシス民であった。