オスマン帝国下の社会
スンナ派イスラームの守護者を任じるオスマン帝国スルタンは、各地からのメッカ巡礼団の警護や、貿易を保護・奨励し、ギリシア人・アルメニア人・ユダヤ教徒などの少数民族の商人に特権を与え、16世紀以降フランス ・イギリス・オランダなどの諸国に対しては領事裁判権を含む通商特権を認めた条約(カピチュレーション)を結んだ。
オスマン帝国下の社会
オスマン帝国の支配に服した住民は、大きく支配層と非支配層(臣民)に分けられた。支配層は、免税・帯刀・騎乗などの特権を許され、軍人のほか、ウラマー出身の官僚もこれに含まれた。これ以外の大多数の農民・商人・職人が臣民であった。ウラマーは、オスマン帝国の各都市に建設されたマドラサでイスラーム諸学を修めたものが、マドラサの教授やカーディー職を勤めながら昇進し、その最高位がイスタンブルのシャイフ・アルイスラームであった。また神秘主義教団(タリーカ)も各地に道場(テッケ)を設け、その長が同職組合(ギルド)の守護聖者としてこれと関連する場合もあった。
オスマン帝国は、イスラーム教徒以外のキリスト教徒やユダヤ教徒に対し、それぞれの宗教共同体(ミレット)の存在を認め、各共同体の長が内部の規約や紛争に関しては責任を負い、政府に対する徴税に協力するかたちで自治を認める体制をとった。これは、キリスト教徒やユダヤ教徒を同じ一神教の「啓典の民」として保護するイスラーム国家の伝統をひきつぐもので、厳しい異端審問をおこなったキリスト教の国家とくらべ、むしろ寛容さの表れといってもよい。このことは、15世紀中ごろ以降、レコンキスタ運動( スペインとポルトガル)の進展によってイベリア半島を追われたユダヤ教徒が、イスタンブルやテッサロニケなどの都市に移住し、商人として重要な役割を果たしたことに表れている。またバルカンの諸民族の村落共同体に対しても、一定の自治を許容する体制をとった。
ティマール制が施行された地域では、土地は原則として国有地であり、農民は検地によって各村落に登録され、徴税権を与えられたシパーヒーなどに租税を納める義務を負った。農民は、代々の耕作地を相続することができ、15〜16世紀には再生産が可能な規模の土地を保有する小農民が多数を占め、大土地所有や地主はほとんどみられない。
都市には、軍人・行政官・ウラマーなどのほか職人や商人が集まり、都市の名士は市内に宗教施設や商業施設の寄進(ワクフ)をおこない、イスタンブルはもとよりブルサ・カイセリなどの地方都市においても都市施設の整備が進んだ。職人や小売商人の間には同職組合(ギルド)が結成され、徴税機構としての役割を果たすとともに、原料購入や品質の統制がなされた。また居住区は、マハッラと呼ばれる街区に分かれ、住民は街区ごとに検地帳に登録された。各街区は徴税や行政の単位として用いられ、相互扶助の役割を果たす場合もあった。
東地中海の周域に広がるオスマン帝国領は、ヨーロッパとインド洋を結ぶ東西交易の交点に位置し、イスタンブルからは、北部アナトリアをとおってイラン・中央アジアヘ、南部アナトリアをとおってシリア・エジプト・メッカヘ、またユーフラテス川に沿ってペルシア湾・インド洋へいたる3つのルートが発達し、商人や巡礼者が往来した。スンナ派イスラームの守護者を任じるオスマン帝国スルタンにとって、メッカ巡礼は重要な行事であり、みずから巡礼団を派遣するとともに、地方総督には各地からの巡礼団の道中の警護を命じた。またオスマン政府は、関税など財政収入をえる意味でも、また首都イスタンブルヘの穀物をはじめとする必需品を確保する意味でも、貿易を保護・奨励し、ギリシア人・アルメニア人・ユダヤ教徒などの領内の少数民族の商人に特権を与え、16世紀以降フランス ・イギリス・オランダなどの諸国に対しては領事裁判権を含む通商特権を認めた条約(カピチュレーション capitulations)を結んだ。
オスマン帝国機の代表的モスクで、巨匠ミマール・スィナンが設計・監督にあたり、完成まで約7年の歳月がかかった。