ソヴィエト政権と戦時共産主義
連合国 はソヴィエト政権を警戒して反革命派の反乱を援助、対ソ干渉戦争に乗りだした。1918年5月、英・仏・日・米がロシア領内に侵入。ソヴィエト政府はトロツキーのもとで赤軍を組織して反撃した。
ソヴィエト政権と戦時共産主義
1918年1月、憲法制定議会が召集されたが、反ソヴィエトの社会革命党が第一党を占めた。そのため、ボリシェヴィキは憲法制定議会を封鎖してソヴィエトを基盤とする体制をきずき、社会主義の確立を目標とすることを明らかにした。ドイツ側とは単独講和にふみきりブレスト=リトフスク条約を結んだ( 合衆国の参戦と戦争の終結)。ボリシェヴィキは共産党と改称し、首都は内陸のモスクワに移された。一方、ボリシェヴィキと共闘してきた社会革命党左派は侵略的な内容の講話条約の締結、農民からの食料徴発やビリシェヴィキの中央集権国家建設に反対して武装蜂起した。共産党はこの反乱を鎮圧して一党独裁体制をきずいた。レーニンは、農業国家ロシアでの革命は先進工業国での革命への第一歩と考えていた。1919年3月、モスクワで共産主義者の国際組織であるコミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インターナショナル)が創設され、世界革命の推進をめざした ❶ 。しかし期待されたハンガリー・ドイツなど中欧での改革はいずれも長続きせず、アジアの民族運動への支援も、中国をのぞいて失敗したため、世界革命の期待は破れた。とはいえ、資本主義社会とブルジョワ民主主義を批判する社会主義国家の存在は、20世紀を通じて諸矛盾解決のための選択肢として期待された。
革命政権を警戒する連合国 はロシア軍脱落後の東部戦線を再建するという名目で軍隊を派遣し、旧帝政派軍人など反革命派の反乱を援助しつつ対ソ干渉戦争に乗りだした。1918年5月、シベリアに抑留されていたチェコ軍団の救援を名目にイギリス・フランス・日本・アメリカなどの軍隊がウクライナ・カフカス・シベリア方面からロシア領内に侵入した。これに対してソヴィエト政府はトロツキーのもとで赤軍を組織して反撃し、チェカ Cheka (非常委員会)を設置して反革命運動を取り締まった。戦争を戦い抜くために戦時共産主義と呼ばれる厳しい統制経済政策がとられた。農民からは強制的に穀物を挑発し、工業の国有化がよりいっそう進められた。レーニンは総戦力で経験した統制経済によって社会主義が実現されると考えたのである。
シベリア出兵(1918年) 連合軍はソヴィエト政権打倒をめざし、反革命の白軍を支援するためソヴィエト領内に軍隊を侵入させ、日本軍もシベリアに派遣された。図はそのウラジヴォストーク港上陸の光景を描く。 参考: 山川 詳説世界史図録