エジプト第3中間期 (紀元前1069年頃から)
第20王朝の終焉を持って第3中間期の始まりとする点ではほぼ一致するが、終了する時期については、第22王朝の末期(紀元前730年頃)まで、アッシリアによるエジプト征服(紀元前7世紀半ば)まで、或いはアケメネス朝によるエジプト征服(紀元前525年)までなど、さまざまな立場がある。以下では第21王朝から第26王朝時代までの概略を記す。
エジプト第3中間期
新王国時代の間に勢力を増したテーベ(現ルクソール)のアメン神官団は、第20王朝の末期頃から上エジプトに事実上の独立勢力を築くに至った。
そしてその長たるアメン大司祭は、ヘリホルの時代以来カルトゥーシュの中に名前を記すなどして事実上の王として振舞うようになった。これはアメン大司祭国家、或いはアメンの神権国家、神国などと呼ばれる。
一方下エジプトでは第20王朝が倒れ、変わって第21王朝が成立した。第21王朝とアメン大司祭国家の間には紆余曲折を経て一応の協力関係が築かれ、対外的にはアメン大司祭は第21王朝の臣下という体裁をとるようになった。
アメン大司祭国家
紀元前1080年頃 – 紀元前945年頃
紀元前1080年頃、アメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家を立てる。
アメン神殿のあるテーベを中心に上エジプトを統治した。歴代のアメン大司祭はカルトゥーシュを用いるなど王として振舞ったが、下エジプトのタニスに中心をおく第21王朝の権威も承認していた。
当初は対立したが、両者は姻戚関係を結び概ね平穏な関係を維持した。
やがて第21王朝が倒れリビア人傭兵の子孫シェションク1世によって第22王朝が勃興すると、アメン大司祭国家は第22王朝のコントロール下に置かれることになった。しかし、その政治制度や神殿の勢力はなお維持され、第22王朝の下でもアメン大司祭職は極めて重要な役職であり続けた。
エジプト第21王朝
紀元前1069年 – 紀元前945年
主に下エジプトと上エジプト北部を統治し、南のアメン大司祭国家にも姻戚関係を通じて権威を及ぼした。
新王国時代に比較して明らかに建造物の規模などが小さくなっており国力の弱体化を推測させるが、完全に無傷な状態で発見されたプスセンネス1世王墓が残されている。都をタニスに置いたことからタニス朝とも呼ばれる。
エジプト第22王朝
紀元前945年 – 紀元前715年
紀元前945年頃から、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝などの他民族支配により衰退。
シェションク1世
リビュア人傭兵の子孫シェションク1世によって開かれた。
マネトがこの王朝が9人のブバスティスの王からなっていると記録しているため、ブバスティス朝、或いは「リビュア人の王朝」とも呼ばれる。その拠点は前王朝から引き続いて下エジプトのタニスであり、タニスからメンフィスにいたる地域がこの王朝の中心であった。
シェションク1世は強力な政治家、軍人であり、南方のアメン大司祭国家の権力も手中にしてエジプトを再統一することに成功した。
パレスチナ遠征
シェションク1世はまずユダ王国を攻撃して圧勝し、イェルサレム市にまで迫った(Sack of Jerusalem (10th century BC))。
ユダ王レハブアムは、イェルサレム神殿の財宝のほとんどをシェションク1世に対して献上することでイェルサレムの破壊を免れた。
次いで北のイスラエルを攻撃し、これにも勝利を収めた。ヤロブアムはギレアド(現ヨルダン)地方へと逃亡し、シェションク1世はメギドにまで到達した。
500年前にこの地で勝利を収めたトトメス3世の例に倣って戦勝記念碑を建設し、勝利のうちに本国へ凱旋した。
オソルコン2世
アッシリアのシリア侵攻
アッシリア(新アッシリア王国)は著しい拡大期に入っており、その王シャルマネセル3世は北シリアを征服し、南部シリアにも手を伸ばしつつあった。この事態に対し、当時のシリア諸国はダマスカス、イスラエル、ハマテを中心とした連合軍を組織してアッシリアに対応したが、エジプト軍もこの連合軍に参加していたことがアッシリアの記録に残されている。
カルカルの戦い
紀元前853年、シャルマネセル3世率いるアッシリア軍とシリア諸国の同盟軍との間で戦われた。
古代オリエント史上有名な戦いの1つであり、この戦いの結果アッシリア軍は撃退され、その西方への拡大は一時頓挫した。
エジプト第23王朝
紀元前818年 – 紀元前715年頃
第22王朝の王族であったペディバステト(ペディバステス)がレオントポリスで打ち立てた。
第22王朝と同じくリビア系の血統を持つ王朝であり、リビア人の王朝、或いはレオントポリス朝とも呼ばれる。
エジプト第24王朝
紀元前727年頃 – 紀元前715年頃
下エジプトのサイスを拠点に、リビア人部族の首長テフナクト1世によって築かれた。
第22王朝の支配力は弱体化し、少なくともレオントポリスに拠点を置く第23王朝、及びヘラクレオポリス、ヘルモポリスにそれぞれ拠点を置く王朝が割拠しており、テフナクト1世もこの時流に乗って自らの王朝を打ち立てた。その後少なくともメンフィス周辺地域まで支配を拡大したと言われている。
こうしたエジプトの分裂と混乱は外部勢力の侵入を招くことになる。
ヌビア人との戦い
エジプトの南のヌビアでは、新王国時代のエジプトによる支配を通じてエジプト文化が定着し、ファラオの称号を用いカルトゥーシュの中に王名を記す王達が強固な王国を築いていた。
そしてアメン神を中心とした宗教体系も導入されており、エジプトの混乱を目にしたヌビア王(エジプト第25王朝)のピアンキは、「旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す」として、エジプト遠征を行った。
テフナクト1世は第22王朝(タニス)のオソルコン4世、第23王朝のイウプト2世、ヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、そしてヘルモポリスのニムロトらと同盟を結び、ヌビア人の侵攻に対応した。しかし、ヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトは早い段階でヌビア側についた。これに対してテフナクト1世はヘラクレオポリスを包囲したが、ヌビア軍の来援により撃退されて自領へと引いた。その後ヘルモポリスもヌビア軍に包囲されて陥落し、更にメンフィスまでヌビア軍が迫った。
テフナクト1世はこのメンフィスでの戦いにも敗れて沼沢地へと逃げ込み、他の4人の王は全てピアンキの軍門に下り、その庇護下において地位を認められるという状態になった。このためテフナクト1世もピアンキ王に降伏の意思を伝えて忠誠を誓った。こうして全エジプトはヌビア人の支配下に入ることになった。このヌビア人の王朝を第25王朝と呼ぶ。
エジプト第25王朝
紀元前747年 – 紀元前656年
紀元前730年頃、クシュ(ヌビア)王ピアンキ(ピイ)、エジプト征服。
複数の王朝が並立していたエジプトに侵入してこれを統一したヌビア人達の王朝を指し、クシュ朝と呼ばれることもある。
1世紀近くエジプトを支配したが、最後はアッシリアのエジプト侵入によってヌビアへと引き上げた。
ヌビアの王国
エジプト新王国の衰退に伴ってエジプトがヌビアから撤退した後、ヌビア人達はナパタを都として独自の王国を建設した(クシュ王国、ナパタ王国とも)。
この都市はナイル川第4急湍よりやや下流、かつて「清純の山」と呼ばれていたゲベル・バルカルという岩山の麓にあり、ここに残存する遺物の数々から、ヌビア人が(少なくとも支配階級は)高度にエジプト化されていたことが把握できる。
彼らはエジプト風の記念物を建設し、アメン神を信奉、ヒエログリフを用いて碑文を残した。さらにエジプトと同じようにアメン神官団が大きな力を持つようになり、しばしば政策にも影響を与えた。
ヌビアの上エジプトの征服
ヌビアの王ピアンキ(ピイ、ピエとも)は、軍勢を率いて北上し、エジプトのアメン信仰の中心テーベ(現ルクソール)を抵抗を受けることもなく占領した。
そこでピアンキはアメン神に捧げる宗教儀式を行うとともに、自分の妹であるアメンイルディス1世を、当時の「アメンの聖妻」シェプエンウエペト1世の養女にし、その後継者とした。これによってテーベのアメン神官団対するコントロールを強めた。
エジプト北部では第24王朝のテフナクト1世を中心に対ヌビアの同盟が組まれたが、上エジプトの重要都市ヘラクレオポリスの王ペフチャウアバステトは早々にヌビアに従った。
テフナクト1世はヘルモポリスのニムロトを誘い、彼を同盟側に引き入れると、ヌビアへの従属を決めたヘラクレオポリスを包囲した。ヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトは篭城してこれに対抗し、ヌビア軍の救援を待った。そしてヌビア軍が到着したことで、両軍は戦闘に入った。同盟軍側にはテフナクト1世の他、第22王朝のオソルコン4世、第23王朝のイウプト2世、ヘルモポリスのニムロトという3人の王、及びその他の州侯が多数参加していた。
ヌビア軍はこの戦いで勝利し、ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクト1世らは自領へと引いた。ペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピアンキを大歓迎したと言う。
ヘラクレオポリスに進駐したピアンキは周辺諸地域を平定しつつ、反転してヘルモポリスを攻撃した。
ヘルモポリス王ニムロトは5ヶ月にわたって篭城し抵抗したが、食料の欠乏などのため勝算が無いのを理解すると降伏した。この結果、上エジプトの全域がヌビア軍の占領するところとなった。
この時ピアンキが降伏したニムロトに対して、ヘルモポリスで飼われていた馬が飢えていることを叱責したという説話が、『勝利の碑文』に残されている。
メンフィスの陥落と第24王朝
上エジプトを平定したピアンキは遂に下エジプトの入り口に当たる古都メンフィスに迫った。
第24王朝のテフナクト1世はメンフィスに8000人の兵士を配置して防御に当たらせた。一方メンフィスを包囲したピアンキは水上から都市を落とすことを画策した。ヌビア軍はナイル川各地の船を徴発すると、それを使って川を横断して市内に侵入し、メンフィスを陥落させることに成功した。
このメンフィスの陥落はピアンキのエジプト遠征の成功を決定付けるものであった。
メンフィス陥落直後、第23王朝のイウプトは王子らとともにピアンキに降伏し、彼の庇護下で自領の統治権を維持する道を選んだ。
下エジプトに入ったピアンキは、ラー信仰の中心都市ヘリオポリスに入り、そこでラー神に捧げる儀式を執り行った。
ヘリオポリス進駐から間もなく、第22王朝のオソルコン4世も降伏してイウプトと同じようにピアンキの臣下となった。
第24王朝のテフナクト1世は沼沢地帯に逃げ込みなお散発的な軍事行動を行っていたが、ここに至ってピアンキに降伏の意思を伝え忠誠を誓った。
こうして全エジプトがヌビアの支配下に収まることとなった。このため、このヌビア人の王国は現在エジプト第25王朝と呼ばれる。
これらの出来事を伝える『勝利の碑文』に、ピアンキ王の治世第21年(紀元前727年)という年号があることから、この遠征は紀元前728年頃、或いはその前後に行われたものであると考えられている。
勝利が確定するとピアンキは降伏した王、及び州侯達から莫大な献上品を受け取り、勝ち誇って本拠地ナパタへと帰還した。そしてナパタのゲベル・バルカルの聖域で新たな大規模な建築活動を執り行い、新王国時代にエジプトによって建てられた神殿を改修・拡張してその威光を示した。
第24王朝の反乱
しかしヌビア軍が引き上げた後、第24王朝のテフナクト1世はさっさと忠誠の誓いを翻して反乱を起こし、下エジプト全域を支配下においてしまった。
テフナクト1世の反乱は少なくともピアンキの存命中には鎮圧されることが無かった。テフナクト1世が紀元前720年頃死去すると、第24王朝の王位は息子のバクエンレネフ(ボッコリス)に受け継がれた。
ナパタに戻って統治していたピアンキ王は紀元前716年に没した。続いて即位したのはピアンキの弟であるシャバカであった。
マネトによればシャバカ(サバコン)はバクエンレネフ(ボッコリス)を捕らえて焼き殺したという。具体的な経緯を記した記録が無いが、シャバカ王の記念物がエジプト全域から発見されることから彼は実際にバクエンレネフを殺し、第24王朝を滅ぼしてエジプトを再統一したらしい。
彼の治世に関することはあまりわかっていないが、少なくともメンフィス、デンデラ、エスナ、エドフ、そして何よりもテーベで壮大な建築活動を行っており、高い指導力を発揮したと考えられる。
シリアでの戦い
シャバカの14年の治世の後、ピアンキの息子であるシャバタカが王位を継いだ。シャバタカの治世に入るとアッシリアの拡大が重大な問題となっていた。
シリア地方は既にアッシリア王サルゴン2世によって、ガザに至るまで全域がアッシリアの支配下に置かれていた。しかしサルゴン2世の死(紀元前705年)に乗じて、同じくアッシリアの支配下に置かれていたバビロニアでメロダク・バルアダン2世が反乱を起こし、シリアでもこれと同盟してユダ王ヒゼキヤがアッシリアに対して反乱を起こした。
ユダ王ヒゼキヤは明らかにシリア地方における反乱を主導した人物であり、シドンとアシュケロンも味方に引き込みアッシリアからの独立を図った。後にエクロンもこの反乱に加わった。
サルゴン2世の後アッシリア王位を継承したセンナケリブは、メロダク・バルアダン2世をキシュ平野の戦い(紀元前702年)で撃破し、バビロニアを再び支配下に置くとシリア地方の反乱平定へと向かってきた。
この事態に対しユダ王ヒゼキヤはシャバタカの下へ支援を要請してきたのであった。シャバタカはアッシリアの脅威を除去する好機と見たか、或いはパレスチナへの覇権を確立する意図があったかはわからないが、この要請に答えパレスチナへの軍事遠征に踏み切った。遠征軍司令官には王弟タハルカが任命され、軍勢を率いてシリアへと向かった。
アッシリア軍はシリアをフェニキア海岸沿いに南下し、アシュケロンを占領した後、アルタク(旧約聖書にあるエルテケ)を包囲した。
シャバタカの治世第2年(紀元前701年)、エジプト軍は包囲されたアルタクの救援に向かい、アルタク平野でアッシリア軍と激突した。
エジプト軍はこの戦いに敗れてパレスチナから後退した。ユダ王ヒゼキヤは領内の都市が悉くアッシリア軍に占領され、イェルサレムに封じ込められるに及んでアッシリアに降伏し、シリア地方全域が再びアッシリアの支配下に置かれた。
しかし、センナケリブは十分な貢納を受け取らないうちに何らかの理由で本国に引き上げ、その後バビロニアで再び発生した反乱の鎮圧に当たることになる。
アッシリアのエジプト征服
紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカが王位を継承した。
タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。特に有名なのはカルナックのアメン神殿における巨大柱廊の再建であり、現在でもその威容を残している。
対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。
しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。
タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入、タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスが陥落した。
その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残している。
更にアッシリア王エサルハドンは「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称しており、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇っている。しかしこれに関しては明白に誇張であり、テーベに逃走したタハルカはその地でなお支配を維持していたことが、彼が行った儀式などに関する碑文から確認できる。
タハルカはなおアッシリアに対する抗戦を続けており、エサルハドンはこれを鎮定するために紀元前669年に再度エジプトに遠征した。
しかしその途中で急死し、アッシリア王位はアッシュル=バニパルが継承した。
アッシュル=バニパルは一旦軍を引き上げさせたため、タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトでもこれに連動して反アッシリアの反乱が発生した。
ヌビア人のエジプト支配の終焉
全エジプトがアッシリアの支配下となる
タハルカの北進と下エジプトの反乱を受けて、アッシュル=バニパルは再びエジプトへと侵攻した。
紀元前667年、アッシリア軍の攻勢を受けてタハルカは再び敗北し、テーベからも逃走してナパタまで撤退した。
当時のテーベの長官メンチュエムハトはアッシリアに降り、全エジプトがアッシリアの支配下に置かれた。
アッシュル=バニパルはタハルカの進軍にあわせて下エジプトで反乱を起こしたエジプト貴族の大半を処刑したが、この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世(ネカウ1世)だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。
アッシリアの手によって有力な貴族の多くがその力を失う中で、地位を維持したサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていくことになる。そしてこのサイスの王家が第26王朝とよばれる政権を形成することになるのである。
エジプト第26王朝
紀元前664年 – 紀元前525年
第3中間期、または末期王朝時代の古代エジプト王朝。
アッシリアがエジプトを征服した後、エジプトの管理を委ねられたサイスの王家による王朝を指すためサイス朝と呼ばれることもある。
後にアッシリアの弱体化に乗じて独立を達成し、オリエントの四大国の1つとして大きな影響力を発揮した。美術面ではサイス・ルネサンスと呼ばれる古王国を手本とした伝統回帰の動きが見られた。最後は新たにオリエント世界の覇者として現れたアケメネス朝の侵攻を受けてその支配下に入った。
アッシリアのエジプト支配とサイスの王家
紀元前7世紀前半には既にオリエント世界最大の勢力となっていたアッシリアは、紀元前671年にエサルハドン王の下でエジプトに侵入した。
第25王朝の王タハルカは戦いに敗れ根拠地であるヌビアへと追われアッシリアのエジプト支配が始まった。
当時サイスを支配していたネコ1世(ネカウ1世)と、その息子プサメティコス1世(プサムテク1世)はアッシリアによってエジプトの管理を任され、それぞれ「サイスの王」、「アトリビスの王」という地位を承認された。
一方敗れた第25王朝ではタハルカの後継者タヌトアメンが体制を建て直し、紀元前664年に失地回復を目指して北上した。
ネコ1世はアッシリアの従属王としてタヌトアメンと戦い、敗れて殺されたと見られる。
ヘロドトスの『歴史』が伝えるところによれば、プサメティコス1世もアッシリアへの亡命を余儀なくされたと言う。しかしアッシリア王アッシュル=バニパルの再度の遠征で同年中にタヌトアメンが撃破され、第25王朝が終了すると、プサメティコス1世は再び王の地位を保証された。これをもって第26王朝の成立と見なされ、アッシリアの庇護の下でその勢力を確実なものとしていくことになる。
エジプトの自立
ヘロドトスの記すプサメティコス1世と下エジプトの支配者達との戦いは、アッシリアの宗主権下において行われたものであり、反アッシリア勢力の統制という面も持ち合わせていたが、プサメティコス1世の下エジプトにおける支配が確立された。
その後、プサメティコス1世は上エジプトのテーベに対しても自らの権威を承認させることに成功した。
国内における支配を確立したプサメティコス1世は、新王国の行政制度を手本とした内政改革に取り掛かった。しかしその称号は古王国風のものが採用され、意識的に「過去の栄光」が追求された。こうした支配者の傾向は美術品にも強く影響し、古王国や中王国風の様式を手本とした復古的な美術様式が形成された。こうした動きは「サイス・ルネサンス」と呼ばれ、この時期に作成された彫像やレリーフの中には、時に現代の学者が古王国時代に作成されたものか第26王朝時代のものか、判別に困難を感ずるほどのものもある。
そしてオリエントにおけるアッシリアの勢力が縮小に転じたことによって、紀元前653年頃までにはその宗主権下から離脱した。
そしてシリア方面への勢力拡大を図った。ヘロドトスの記録によれば、プサメティコス1世はアシュドドを29年間かけて陥落させた。一方でこの頃オリエントに侵入したスキタイ人がシリア地方に入ると、プサメティコス1世は「贈り物と泣き落としで」彼らの攻撃を回避したとも言う。
アッシリアの滅亡
一方でアッシリアではアッシュル=バニパル王の治世末期頃から急速に弱体化した。東方ではイラン高原を中心としたメディアが勢力を増しつつあり、紀元前625年頃までにはバビロニア総督ナボポラッサルもアッシリアに反旗を翻して独自の王国を築いた(新バビロニア)。
メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、これを破って首都ニネヴェを始めとした中心地帯を制圧する勢いを見せた。
プサメティコス1世はこの事態に対し、かつての支配者アッシリアを助ける道を選び、紀元前616年にはシリアへ出兵して新バビロニア軍と干戈を交えた。しかし大勢は変わらず、間もなくメディアと新バビロニアの連合軍によってアッシリアの首都ニネヴェが陥落、アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世がハランへと逃れた。
紀元前610年にプサメティコス1世が没すると、息子のネコ2世(ネカウ2世)が王位を継承し、なおもアッシリアへの支援を続け、シリアへの再度の出兵に踏み切った。彼は途中でユダ王ヨシヤを殺し、パレスチナを通過してハランのアッシュール・ウバリト2世と合流したが、新バビロニア軍との戦いに敗北して退却を余儀なくされ、ここにアッシリアが滅亡した(紀元前609年)。
メギドの戦い, カルケミシュの戦い
アッシリアの救出に失敗したネコ2世はシリア地方で覇権を確立するべく策動したが、アッシリアを破った新バビロニア王ナボポラッサルは息子のネブカドネザル2世に命じてシリアのエジプト軍を攻撃した。
エジプトと新バビロニアのシリアにおける戦いは数年間続いたが、ユダ王国を破り(メギドの戦い (紀元前609年))、遂に紀元前605年、カルケミシュの戦いでエジプト軍は決定的な敗北を蒙り、ネコ2世のシリア政策は完全に頓挫した。ネブカドネザル2世が余勢を駆ってエジプトにまで進軍してきた時にはこれを撃退することに成功したものの、以後シリア地方での軍事活動を行うことはできなかった。
シリアトリビアでの敗北
アッシリア滅亡後のオリエント世界で勢威を振るったのはエジプト、新バビロニア、メディア、そしてアナトリア半島のリディアという四つの大国であった。
エジプトにとって他の三ヵ国のうち最も憂慮すべき相手は国境を隣接する新バビロニアであり、ネコ2世が敗北した後もシリアを巡る戦いが繰り返されることになる。
ネコ2世の死後、紀元前595年に王位を継いだプサメティコス2世(プサムテク2世)の治世は短く、ヘロドトスの伝えるヌビア遠征以外の業績は不明であるが、彼は新バビロニアとの戦いは避けていたと考えられる。
しかし次のアプリエス(ウアフイブラー)の時代には再びシリア地方で新バビロニアと衝突した。ユダ王国は新バビロニアに制圧された後も、エジプトとの緩衝国の役割を期待され従属王国として存続していた。しかしこの従属に反対するユダ王国の主戦派が主導権を握り、紀元前588年新バビロニアからの離反を目指す動きを見せると、ウアフイブラーはこれに対する支援を約した。ネブカドネザル2世はすばやくユダ王国への出兵に取り掛かり、紀元前587年には首都イェルサレムを包囲した。ウアフイブラーは直ちに救援軍を派遣し、イェルサレム近郊で新バビロニア軍と戦ったが敗れ去り、イェルサレムも陥落してユダ王国は完全に滅亡した。
シリアで敗北したウアフイブラーは、その後も軍事面での失敗を続け求心力を低下させていく。シリアでの敗北の後、リビア地方の植民市キュレネにギリシア人が大挙移住すると言う事件が起きた。このために周辺のリビア人と軋轢が強まり、リビア人の王アディクランはウアフイブラーに支援を求めてきた。ウアフイブラーはキュレネに向け大軍を派遣したが、テステの泉付近の戦いで壊滅的な損害を受けて退却に追い込まれた。
反乱と簒奪
リビアから生還したエジプト兵達は、ウアフイブラーが勝つ見込みがないのを知りながら故意に出兵に踏み切ったものであるとして反乱を起こした。
ウアフイブラーは兵士達の反乱を説得によって鎮めようと試み、ヌビア遠征で頭角を現していたイアフメス2世(アマシス2世、アモシスとも)を派遣した。イアフメス2世は反乱兵達と交渉を重ねたが、反乱兵達はイアフメス2世に対し、自分達がウアフイブラーよりもイアフメス2世の方をこそ王として相応しいと考えていることを伝えると、イアフメス2世はそれに乗って王を名乗り反乱側に寝返ったのであった。
イアフメス2世が反乱側についたことが知れると、ウアフイブラーの人事上の失策も手伝って多くのエジプト人がイアフメス2世側に付いた。
このためウアフイブラーはイオニア系ギリシア人とカリア人の傭兵を中心とした軍を持って反乱討伐に向かい、モメンピス(現メヌフ)の町でイアフメス2世の軍勢と戦った。
ウアフイブラーの傭兵達は勇敢に戦ったが、数が劣ったために敗北を喫し、ウアフイブラーはイアフメス2世に捕らえられ、処刑された。その遺体は歴代の王達と同じように王に相応しい礼式に則って埋葬された。
こうしてイアフメス2世が王位を簒奪することに成功し、以後40年以上にわたってエジプトを統治することになる。
アケメネス朝のエジプト征服
イアフメス2世の治世末期頃からオリエント世界の政治情勢は激変を迎えることになる。それはアケメネス朝の出現であった。アケメネス朝はペルシア帝国とも呼ばれ、かつてはメディアに従属していた小王国であったが、キュロス2世の時代にメディアから離反し、逆にこれを併呑した(紀元前550年)。
この事態に対し、イアフメス2世は当時の新バビロニア王ナボニドゥス、リディア王クロイソスらとともに同盟を結んで対応した。しかし、数年のうちに新バビロニアもリディアもキュロス2世によって滅ぼされてしまい、エジプトへの侵攻も時間の問題であった。
キュロス2世がカスピ海地方での戦いに忙殺され、マッサゲタイ人との戦いによって戦死した(紀元前530年)ために、エジプトへのアケメネス朝の進軍はかなり後のことになったが、キュロス2世の後継者カンビュセス2世は紀元前526年末、もしくは翌年の初頭にはエジプト遠征を開始した。
イアフメス2世はこれに対抗するために戦争準備に奔走し、サモスの僭主ポリュクラテスとの同盟が結ばれた。しかしポリュクラテスは敵が接近するとアケメネス朝側に寝返り、さらにイアフメス2世自身も戦いの直前(恐らく紀元前526年末)に歿し、息子のプサメティコス3世(プサムテク3世)が王位を引き継いだ。翌年、プサメティコス3世はやはりイオニア系ギリシア人とカリア人の傭兵を主力とする部隊を率いてナイル川のペルシウム河口に布陣、ペルシア軍と相対したが完敗を喫しメンフィスへと後退した(ペルシウムの戦い)。
この時点でプサメティコス3世の下にカンビュセス2世から降伏を勧告する使者が送られてきたが、プサメティコス3世は使者を殺害して篭城した。そしてメンフィスで最後の戦いが行われ、エジプトの敗北に終わった。プサメティコス3世はカンビュセス2世の下に引き出され詰問と侮辱を受けたものの、その受け答えの立派さに感銘を受けたカンビュセス2世はプサメティコス3世を処刑せずにおくことにしたのであった。
しかしプサメティコス3世は到底従属王の地位に満足せず、叛乱を企画したために処刑され、第26王朝は終焉を迎えた。