ブリュメールのクーデタとナポレオン
- 1796〜97 第1次イタリア遠征
- 1797 カンポ=フォルミオの和約、第1回対仏大同盟解消
- 1798〜99/1801 エジプト遠征、アブキール湾の戦いでネルソン(英)に敗北
- 1799 第2回対仏大同盟成立、ブリュメール18日のクーデタ(総裁政府を打倒・統領政府樹立・ナポレオン第一統領に就任)
- 1800 フランス銀行創立
ブリュメールのクーデタとナポレオン
総裁政府のもとでは、インフレによる生活の圧迫の不満を背景にジャコバン派の復活がみられ、また社会的・政治的不安に乗じた王党派・右翼の台頭もあった。有産市民や農民は、混乱を収拾し、政治を安定させ、革命の成果を保証できる強力な指導者の出現を望んだ。
ナポレオン=ボナパルト Napoléon Bonaparte (1769〜1821)がそのような期待を背負って登場してきた。コルシカのイタリア系の貧しい貴族の家に生まれたナポレオンは、フランスの士官学校をでて砲兵将校となったが、革命軍に加わり、その軍事的才能を認められた。テルミドールのクーデタではロベスピエール派とみなされ、一時その地位を失ったが、総裁政府発足直前におこったパリの王党派の反乱を鎮圧して、総裁政府の信頼をえた。1796年のオーストリア攻略作戦では、27歳のナポレオンがイタリア方面軍事司令官に抜擢され、兵力で勝るサルデーニャ・オーストリア同盟軍を破り、1797年オーストリアに迫り、カンポ=フォルミオの和約を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた。彼の軍事的・政治的才能はここでも遺憾なく発揮された。
エジプトを征服し、イギリスのインド支配にいどむ基地とするという目的で、1798年ナポレオンはエジプト征服をおこなった。しかし、エジプトは占領したが、フランス艦隊はイギリスのネルソン Nelson (1758〜1805)艦隊にアブキール Aboukir で敗れて全滅し、フランス遠征軍はエジプトに釘づけにされた。1799年イギリスはオーストリア・ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成した。国内の政治状況とイギリスの動きをエジプトで知ったナポレオンは、軍をエジプトにおいて、500の兵と4隻の船でフランスに戻った。
シェイエス・タレーラン Talleyrand (1754〜1838)・フーシェ Fouché (1759〜1820)らが協力をし、クーデタ計画が練られた。1799年11月9日、革命暦ブリュメール Brumaire (霧月)18日、ナポレオンは軍を指揮してクーデタを実行、総裁政府を倒し、臨時(執政)統領政府 Consular を樹立した(ブリュメールのクーデタ)。新しい憲法がつくられ、国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成をえた。こうしてクーデタは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領となり独裁的権力を握った。
1800年ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開した。ナポレオン軍はアルプスを越えて北イタリアに入り、マレンゴの戦い Marengo でオーストリア軍を破った。1801年リュネヴィル Lunéville でオーストリアとの講和が結ばれた。ピット(小ピット)内閣が倒れたイギリスとは1802年、アミアンの和約 Amiens が結ばれた。一時的ではあったが、ナポレオンはヨーロッパに戦争のない国際平和を実現させた。革命以来フランス政府と関係が悪化していた教皇に対しても、ナポレオンは1801年宗教協約(コンコルダート Concordat )を結び、フランスにカトリック復活を認め和解した。
国内秩序の回復もはかられた。1800年フランス銀行の設立や税制改革は経済を安定させ、小学校・中学校・大学までの教育制度も整えられた。レジオン=ドヌール勲章を定め、国家への貢献を表彰する制度もつくられた。しかしナポレオンの施策のなかでもっとも大きな意義をもったものが、「ナポレオン法典」の名でよばれるフランス民法典の編纂であった。私有財産の絶対性、家族の尊重、国家の世俗性・法のまえの平等などの原則を確認しているこの法典は、伝統と革命の成果を調和させ、法的に安定させたものである。この民法典は、近代化するヨーロッパ諸国の民法典のひとつの模範となった。
ナポレオン法典(1804)
- 213. 夫は妻を保設する義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う。
- 371. 子は年齢のいかんにかかわらず、その父母に対して尊敬の義務を負う。
- 544. 所有権は、法律または規定によって禁止された行使によらないかぎり、物をもっとも絶対的に使用し、かつ処分しうる権利である。
- 545. なんぴとも、公益上の理由により、かつ正当にして事前の補償を受けないかぎり、その所有権の譲渡を強制されることはありえない。
- 1382. 何らかの行為を行い、他人に対して損害を与えた者は、損害が、その者の過失によって生じた者であるならば、これを賠償する義務を負う。
彼はモンターニュ派に共鳴し、トゥーロン港奪回に成功して旅団長となった。ロベスピエールが逮捕された時、一時拘束されたがすぐ釈放され、その後イタリア遠征などを成功させて名声を高めた。