人と物と知識の交流
マドラサ(イスラーム世界の高等教育機関)に入学を許可された学生は、衣服や食事を提供され、無料で学問を続けることができた。メッカ巡礼に加えて、遠隔の都市を訪ねる「学問の旅」は、知識と情報の交換を盛んにし、イスラーム文化の発展に大きな影響をおよぼした。
人と物と知識の交流
イスラーム社会ではアラビア語が公用語として用いられ、また各地の都市を結ぶ交通路の安全が確保されたことによって、人と物の交流はさらに活発となった。
毎年おこなわれるメッカ巡礼(ハッジ)も人の交流を盛んにし、イスラーム文化の統一に大きく貢献した。『コーラン』は貧者や旅人への保護をくりかえし説いているが、たとえばマリーン朝の探検家・イブン・バットゥータ(1304〜1368)が大規模な旅行をすることができたのも、旅人を歓待する社会慣行の賜であった。このような人の移動をつうじて、学問の成果や新しく開発された織物・灌漑の技術などが遠隔の地にすばやく伝えられたことが、イスラーム社会の著しい特徴である。
イブン・バットゥータ
モロッコのタンジールに生まれたベルベル系のアラブ人旅行家。1325年、22歳の時にメッカ巡礼を志して故郷を出発。エジプト・シリアをへてメッカに巡礼したのち、イラク・小アジアを旅して33年から8年あまりインドのデリーに滞在した。ついでスマトラから元朝治下の泉州にいたったが、首都の大都(北京)を訪れたかどうかは不明である。その後、再びスマトラ・シリア・エジプトを経由して、1949年フェスに帰還した。
帰国後、30年あまりにおよぶ体験を口述筆記によって旅行記にまとめた。実体験に基づかない記述もあるが、14世紀前半のイスラーム世界について、おおむね正確で、しかも人間味あふれる情報が伝えられている。
アッバース朝時代になると、ムスリム商人(タージル)たちは、香辛料や陶磁器、金、奴隷などを求めて、イスラーム世界の外へも積極的に進出した。遠隔地貿易には、ラクダを用いる隊商貿易と、三角帆をつけた縫合型のダウ船を用いる商船貿易とがあった。
隊商貿易はシルク・ロードをつうじて西アジアと中国・南ロシアとの間を往復し、また東ローマ帝国の小アジアや内陸アフリカへと出向いていった( オアシスの道(オアシス・ルート))。
一方、商船貿易は季節風を利用し、羅針盤を用いて地中海やインド洋を自由に航行し、遠く東南アジアの島々や中国沿岸の杭州や泉州にいたるものもあった( 海の道(マリン・ルート))。
中国・東アフリカ・東南アジアの海港都市や内陸アフリカの集落にはムスリム商人の居留地が設けられた。中国では彼らはタージー(大食)と呼ばれ、清真寺(モスク)を建設してイスラーム教徒としての生活を営んだ。12世紀以後になると、これらの居留地には法学者や神秘主義者(スーフィズム)も移り住むようになり、彼らは先住民をイスラーム信仰に導くうえで大きな役割を果たした。特に中国では、モンゴル帝国の成立以降、西アジアからアラブ人、トルコ人、イラン人など多数のイスラーム教徒が来往し、これを機にイスラーム教は中国各地に広まりはじめた。また、医学・薬学・天文学・暦法などイスラームの学術が中国に伝えられたのも、この頃のことである。
イスラーム教徒の子弟の教育は、『コーラン』の学習から始まる。家庭やモスクで『コーラン』の暗記を終えた青年たちは、すぐれた師を求めて各地の学院(マドラサ)をめぐる「学問の旅」を続け、法学・神学・哲学・歴史学などのイスラーム諸学を習得した。このような過程をへることによって、初めて一流の知識人(ウラマー)となることができたのである。たとえば、中央アジアのサマルカンドやイベリア半島のコルドバに育った青年が、イラクのバグダードやバスラ、シリアのダマスクス、そしてエジプトのカイロやアレクサンドリアと旅を続けてイスラーム諸学を身につけることは、決して珍しいことではなかった。しかも、これらの学院は寄進財産(ワクフ)の収入によって運営されていたから、入学を許可された学生は、衣服や食事を提供され、無料で学問を続けることができた。メッカ巡礼に加えて、遠隔の都市を訪ねるこのような「学問の旅」は、知識と情報の交換を盛んにし、イスラーム文化の発展に大きな影響をおよぼしたのである。