共和政ローマ(身分闘争)
平民は貴族との間に身分闘争をおこして政治的権利の獲得をめざした。護民官制度や平民会の設置、十二表法によって平民の権利が法によって守られるようになり、貴族と平民の通婚も可能になった。ホルテンシウス法によって国家の正式な民会ではなかった平民会の決議が、元老院の承認を経なくともただちに国法となることが定められたが、元老院が権威と実権を持つ貴族寡頭政治的なローマの政治体制は維持されており、アテネにみられたような民主政はローマでは実現しなかった。
共和政ローマ(身分闘争)
ローマでは任期1年の2名の執政官(コンスル)が貴族から選挙で選ばれ、軍民の最高官となり、このほか法務官や財務官などの政務官がおかれた。従来から長老たちの会議として存在していた元老院(セナートゥス)は次第に役職経験者の終身議員から構成されるようになり、執政官を監督指導して国政の実権を握っていた。平民は政治から締め出されていたが、自律的農民で、上層は重装歩兵として戦争にも参加したから、不満を持つようになった。また貧しい平民は借財に陥り、こうしては平民は貴族との間に身分闘争をおこして政治的権利の獲得を目指した。
貴族は国防上の必要を考えて譲歩し、紀元前5世紀初めに平民の権利を守って身体を神聖不可侵とされる護民官の制度を認め、平民会の設置をも許した。紀元前450年ころには最古の成文法として十二表法も設定されて平民の権利が法によって守られるようになり、やがて貴族と平民の通婚も可能になった。
そして紀元前367年に制定されたリキニウス・セクスティウス法は貴族など有力者による公有地の占有を制限する一方、執政官の一人を平民から出すことを定め、以後ほとんどの政務官職が平民に解放されていった。
こうして紀元前287年のホルテンシウス法によって、それまでは国家の正式な民会ではなかった平民会の決議が、元老院の承認を経なくともただちに国法となることが定められて身分闘争は一応終わった。しかしこのころには平民のうちの有力者が執政官になり、元老院に入って新貴族(ノビレス)となり、政権に参加していたから、元老院が権威と実権を持つ貴族寡頭政治的なローマの政治体制は維持されており、アテネにみられたような民主政はローマでは実現しなかった。
共和政ローマの政務官職
ローマでは政務官職は上層市民が権力を目指すために不可欠の重要性をもったが、一般の市民が独占しないように官職の格差と就任順序が慣例で定められ、就任すべき年齢や次の官職につくまでの休みの期間があった。
これは「名誉の階梯」と呼ばれた。25歳くらいで財務官になり、按察官(神殿・市場の監督)、護民官、法務官を経た上で、しかも限られた人物が40歳くらいで執政官になれた。2度以上執政官になったり順序を経ないで若くして高級官になるのは極めて異例のことであった。