荘園制(中世ヨーロッパ)
古典荘園:7〜8世紀に始まり10世紀頃には西ヨーロッパ全体に広がる。農民集落は散村し、荘園も散在していた。
純粋荘園:9世紀以降の第2次民族大移動の混乱で農民たちは有力な領主のもとに集まり集村的農業社会が形成される。
荘園制(中世ヨーロッパ)
荘園は、通常主君から家臣に封土として貸与されたものであるが、封土には耕作者としての農民も含まれており、家臣は領主として荘園内の農民を支配することになった。領主は、領内の司法・警察に関係する独自の領主裁判権をもつほか、国王の役人の領内への立ち入りや課税を拒否する不輸不入権(インムニタス)をも認められていたため、社会の分権化が一層進んだ。この時代の農民の多くは農奴といわれる半自由民で、家族・住居・農具の所有権は認められたものの、よその土地に移動したり、職業を変えたりすることはできなかった。また、中世初期の農民集落は散村が一般的であり、荘園も一つの土地にまとまっていることより散在している場合が多く、各荘園は領主の派遣した荘園役人(荘司)におさめられていた。
古典荘園
荘園内の土地は領主が直接経営する直営地と、農奴の家族経営に任せられる保有地(託営地)および森林・牧草地・湖沼などの共有地とからなっていた。また、農奴は保有地の地代として生産物を納める(貢納)ほか、週2日程度領主直営地を耕作すること(賦役)が義務付けられていた。こうした形態の荘園は古典荘園と称され、7〜8世紀に始まって10世紀頃にはほぼ西ヨーロッパに共通してみられるようになった。農奴の負担は、貢納と賦役のほかに、教会に対する収穫物の十分の一税、結婚税、死亡税、領主の独占する各種施設(水車・パン焼き窯・ブドウ搾り器)の使用料支払いなど、多岐にわたった。
純粋荘園
しかし、第2次民族大移動(ヴァイキングの活動 – 世界の歴史まっぷ)の混乱期をつうじて、農民たちは次第に有力な領主の近くに集まり住むようになり、集村的農業社会が形成された。それとともに、一定の領域を一円的に支配する新たな領主権力が誕生した。また、牛や馬に鉄製の重量有輪棃をひかせる耕作法や、農地を春耕地・秋耕地・休耕地の3つに区分して地味の消耗を防ぐ三圃制農法が普及するなど、農業状の技術革新が進むと、農民の保有地からの貢納に依存する純粋荘園の形態が一般化し、さらに貨幣経済の浸透に連れて地代の金納化が進み、農奴の地位も次第に向上していった。
参考 山川 詳説世界史図録
中世農民の生活 農夫ボドと妻の一日
「シャルルマーニュの治世の終わりに近いある晴れた春の日、ボドは早朝に起床した。なぜかというと、この日は僧院の直営ばたけに働きに行く日だったからである。彼は管理人が恐ろしくて遅刻などできなかった。・・・・自分で飼っている大きな牛と、突き棒でこの牛をそばで追う幼いウィドを連れ、近くの小作地から出てくる仲間と連れ立って出かけた。仲間たちもこの日同じく領主屋敷に働きに行くところである。ある者は馬や牛を引き、ある者は根掘り鍬・鋤・斧・大鎌を手にして集まり、管理人の命令通りに直営地の耕地・採草地・森で働くために隊を作って出かけた。・・・・ボドの妻エルマントリュードもまた忙しい。この日は地代の雛を納める日である。肥えた若雛と卵を全部で5個。彼女は9歳になる次男に赤ん坊のイルドガールの世話を頼み、領主屋敷に出かける。・・・・彼女は自分の畑に帰ると、狭いブドウ畑で働く。1、2時間たつと家に戻り、子供達の食事をつくり、それから子供達のために暖かい羊毛の布を織って残りの一日を過ごした。」(『中世に生きる人々』 アイリーン・パウア著/三好 洋子翻訳)