魏晋南北朝の文化
南朝(江南)首都・建康 漢民族固有の貴族文化=六朝文化(文芸中心・自然主義的)
北朝(華北)首都・平城→洛陽 異民族的な要素を加えた、豪快で実用的な文化
魏晋南北朝の文化
魏晋南北朝時代(220年〜589年)には、社会の激しい変動に応じて、学問・芸術・思想・宗教などの各方面に新しい展開がみられた。そのうちでも仏教と道教の発展にめざましいものがあった。
この時代の文化の特色としては、貴族的な色彩の濃い文化であったことがあげられる。とりわけ、江南では皇帝の権力が弱かったために、貴族が政権を左右し、彼らによる自由清新な精神的活動がおこなわれ、優雅な貴族文化 (六朝文化)が発達した。一方、華北に国をたてた北方民族は、しだいにその固有の生活や習慣などを維持することができなくなり、漢人の社会に同化していったが、その質実剛健な気風は独特な文化を作り上げた。
文学・芸術
この時代のもつ貴族的性格は、文学や芸術によく現れている。梁の昭明太子(蕭統)が編集した『文選』は貴族文学を代表するもので、春秋時代以来のすぐれた詩文が集められている。この時代には、4字・6字の対句と韻を用いた華麗な四六駢儷体という形式の文章が流行したが、その代表的な作品は『文選』のなかにみられる。
また、詩人としては、田園風景の中に人生の真実を表現しようとした東晋末の陶淵明(陶潜)や、自然美をたたえた宋の謝霊運らが現れた。
貴族の洗練された生活のなかで芸術も発達し、書に東晋の王羲之、絵画に東晋の顧愷之が現れた。
王羲之は漢字の楷書・行書・草書の3書体を芸術的に完成させ、後世、書聖と呼ばれ、その書風は長く中国の書の典型とされた。また「女史箴図」を描いた顧愷之は、中国画の祖といわれ、画聖と称された。
学問・思想
学問では、儒学は後漢末における国家秩序の崩壊とともにその権威が失われ、一般には振るわなかった。ひきつづく戦乱と社会不安を反映して、貴族の間には現実から逃避し精神の自由を重んじる傾向が強く、無為自然を説く老荘思想が彼らの心を捉えた。
魏・晋時代には「竹林の七賢」(阮籍, 嵆康, 山濤, 劉伶, 阮咸, 向秀, 王戎)の言行にみられるように、道徳や規範に縛られず、世俗を超越した清談が文化人の間で流行した。
また、自然科学の発達にも著しいものがあり、晋の王叔和は後漢末の張仲景が著した『傷寒論』(医学書)を整理・分類し、宋の祖沖之は、暦を改良し、円周率を精密に算定した。
北朝では、5世紀に酈道元が、河川とその流域の地理と歴史を記した『水経注』を著し、6世紀に賈思勰は華北の乾地農法を集大成した農業技術書である『斉民要術』を著した。
仏教の受容
インドにおこった仏教は、西域をへて1世紀ころに中国に伝えられていたが、社会一般に広まったのは4世紀後半からである。とくに五胡十六国時代には、北方もしくは西方諸民族の支配のもとで、中国の伝統思想に縛られることが少なかったために、4世紀初めに西域から仏図澄が洛陽にきて布教を行い、5世紀初めには鳩摩羅什が長安に迎えられて布教や経典の漢訳が進んだ。
また、経典を求めてグプタ朝時代のインドに赴いた東晋の法顕は、往きには内陸アジアを経由する陸路を、帰りにはシンハラ(セイロン)より海路を利用し、帰国後その旅行記『仏国記』(法顕伝)を著した。
この時代の仏教は、一般に国家や貴族層の保護をうけたが、北朝ではもっぱら皇帝の保護のもとで繁栄し、とくに北魏では国家仏教としてさかんになった。このため皇帝の意向によって弾圧される場合も生じることになり、5世紀初めに北魏でおこなわれた廃仏は、皇帝が道教を信仰したためであった。
仏教の受容にともない、仏像・寺院もさかんに作られるようになり、五胡十六国時代に初めて開かれた敦煌(莫高窟 )や北魏時代に建築が始まった雲崗石窟・龍門石窟などの巨大な石窟寺院は、遠くインドのガンダーラ様式・グプタ様式や、中央アジア様式の影響をうけている。
また、江南でも慧遠ら中国僧の布教によって、仏教は貴族層に受入れられた。中でも梁の武帝(蕭衍)(位502〜549)は熱心な仏教信者となり、建康には多くの寺院がつくられた。
道教の成立
道教の源流は、老荘思想が民間信仰や不老長生を願う神仙思想などと結びついた後漢末の太平道・五斗米道にあるとされるが、この時代に仏教の影響をうけ、天師道として発展した。
北魏の寇謙之は、太武帝の信任をうけて天師道に改革を加えて新天使道を始め、国家宗教として教団の形成に努めた。
こののち、道教は広く普及するようになり、儒教・仏教とならんで中国思想の主流を形成するようになるとともに、不老長生と現世的利益を願うその教えは民衆のなかに深く溶け込んでいった。