ボルジア家 愛と欲望の教皇一族
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ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファーストシーズン
相関図

DVD
ボルジア家に関わるルネサンス都市の地図


ミラノ公国
ルクレツィアと結婚したジョヴァンニの本家がミラノの名家スフォルツァである。両家の関係を深めるための結婚だったが…。ルッカ
シャルル8世率いるフランス軍がヴァチカンに向かう途中、強固な城壁で守られたルッカを陥落させた。ヴァチカン
全世界のカトリック教会の総本山。絶大な権力を誇ったボルジア家は「神の名の下に」欲望の限りを尽くした。ナポリ王国
ボルジア家ホフレとナポリ王国サンチャの政略結婚が行われ、対仏同盟を結ぶ。フィレンツェ共和国
メディチ家など新興承認層によって発達した都市。ルネサンス文化の中心都市として文化・学問を開花させた。あらすじ
第1話 教皇誕生
1492年、インノケンティウス8世(ローマ教皇)が崩御した後、狡猾なロドリーゴ・ボルジアは、従順な息子チェーザレの助けを借り、脅しや買収によって教皇の座を勝ち取りアレクサンデル6世 (ローマ教皇)となる。そんなボルジア家の腐敗は、イタリアの特権階級に危機感を覚えさせ、ロドリーゴの仲間デッラ・ローヴェレ枢機卿とオルシーニ枢機卿を不倶戴天の敵に変えてしまう。そして、晩餐会の夜、衝撃的で陰惨な暗殺計画が…。


ボルジア家
コンクラーベ
教皇選挙のこと。教皇崩御(退位)後に枢機卿が実施した。当時の持ち表は3票、選出には出席者の2/3以上の得票が必要とされた。参加者は外部との接触を絶たれた状態でシスティーナ礼拝堂に寝泊まりし、小礼拝堂で投開票を行なった。食事も検査後に回転扉で場内に入れられ、長引くと質素なものにされた。教皇が絶大な権力を持っていた時代には政治的駆け引きの場だった。ローマ教皇
カトリック教会の最高権威者。ローマ司教として初代ローマ司教、使徒ペテロの後継者。ペテロがキリストから天国の門の鍵を預かったため、キリストを代理する。教皇庁のあるヴァチカンのサン・ピエトロ(イタリア語で聖ペトロの意)大聖堂地下に聖ペテロの墓があるとされている。歴史的には4世紀から始まり、中世には広大な教皇領を領有した。枢機卿
カトリック教会におけるローマ教皇に次ぐ高位の聖職者。11世紀に設けられた職制。教皇の自由意志で任命され、教皇選挙権を持ち、教皇の最高顧問。そのため、司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿の三段階に別れ、枢機卿団議長は司教枢機卿から選ばれた。コンクラーベにおいては、司教枢機卿長が投開票責任者を務め、司祭枢機卿長、助祭枢機卿長がそれを補助した。なお、例えば使徒の後継者とされる司教に代表される、司祭、助祭などの位階と、枢機卿などの役職は別物である。第2話 暗殺者
教皇アレクサンデル6世となったロドリーゴ・ボルジアは、自らの権力を使い、今は亡き政敵の邸宅を愛人のジュリアに与える。一方、宿敵デッラ・ローヴェレ枢機卿は、教皇の姦淫の罪を暴こうと企んでいた。父の姦淫の証人を消すように暗殺者のミケロットに命じる長男チェーザレ・ボルジア。その頃、ロドリーゴの美しき娘ルクレツィア・ボルジアは、父に相手にされなくなった母ヴァノッツァ・カタネイへの忠誠と父の美しい愛人への忠誠の板挟みになっていた。アレクサンデル6世(ローマ教皇)は反勢力に備え、ルッカの司教フィオレンティーニ猊下、ナポリの司教マスコリ猊下、リヨン司教、息子のバレンシア大司教チェザーレ・ボルジアら自分に近い者を枢機卿にした。一方教皇の姦淫の罪を暴こうと企んでいたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿は逆に罠に嵌まり逃亡する。
儀典長


ピントゥリッキオ
ジュリア・ファルネーゼの肖像画を描くシーンで登場するルネサンス期のイタリアの画家ピントゥリッキオ(ベルナルディーノ・ディ・ベット)は、教皇アレクサンデル6世(ローマ教皇)がバチカン宮殿に、14室からなるボルジアの間を増築する際に、部屋の内装としてフレスコ画の作成を行なった。フレスコ画など、1492年から1494年にかけて描かれた絵画には、中世の博物学的知識、キリスト教の終末論、神につながるとされるボルジア家の系譜などが図像学的に表されている。

第3話 異教徒
教皇選挙で散財し、資金を必要としていたロドリーゴ・ボルジアは、金さえ払えばスペインによる異端審問の手が及ばない安住の地として、追放されたユダヤ人にローマを開放する。さらに、自らの権力基盤を固めるべく、外国の王子を来賓としてヴァチカンに迎え入れたり、ルクレツィアを政略結婚させることで、政治同盟を築き上げていく。
デッラ・ローヴェレ枢機卿はナポリへ行き、アレクサンデル6世 (ローマ教皇)の廃位について相談をするためフェルディナンド1世(ナポリ王)とアルフォンソ王太子に謁見したが、予期せぬ事態が起こり追い出される。
オスマン帝国第8代スルタン・バヤズィト2世から、跡目争いの脅威になるからと腹違いの弟ジェムをローマ教皇庁への大使として保護してほしいと申し入れがあり、アレクサンデル6世(ローマ教皇)は、財政的報酬と引き換えに受け入れる。
また、イベリア半島のユダヤ人を受け入れるかわりにユダヤ人から資金を調達する。ユダヤ人は改宗して教皇領に住み着いた。コロンナ、スフォルツァ、メディチ、エステなどあらゆる王子から、アレクサンデル6世 (ローマ教皇)の愛娘・ルクレツィア・ボルジアの縁談が来たが、政敵デッラ・ローヴェレ枢機卿が北へ逃げたと知ったアレクサンデル6世(ローマ教皇)は、カテリーナ・スフォルツァが持ってきたミラノのペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァとの縁談に決める。
カテリーナ・スフォルツァは、両家が手を組めば一族のルドヴィーコ・スフォルツァ(ミラノ)が我々に味方すると約束し、多額の持参金を要求していた。
持参金が足りないアレクサンデル6世は、男前で心の優しいジェムとルクレツィア・ボルジアが仲良くなっていく姿を見て、ジェムの殺害を命じる。ジェムの命にはオスマン帝国スルタンより、持参金と同じ額の報酬が支払われた。
イサベル女王
イベリア半島(カスティーリャ王国、アラゴン王国、ナバラ王国など)、南イタリア(シチリア王国、ナポリ王国)は、フェルナンド2世(アラゴン王)とイサベル1世(カスティーリャ女王)の結婚、およびフェルナンド2世の征服によって大部分がトラスタマラ家によって統合された。レコンキスタが進行する中で、カトリック信仰による国家統一をすすめようとしたイサベル1世(カスティーリャ女王)は異端審問制度やユダヤ教徒追放令を打ち出しユダヤ人を圧迫した。 両王の下でグラナダ王国が征服され、レコンキスタが終焉を迎えた。このうちイベリア半島の諸国から、今日に至るスペイン王国が形成され、南イタリアはフェルナンド2世以降、ナポレオン戦争の時代を除いて一人の君主の下に治められるようになった。そして海外植民地や南イタリアの諸国も含めて、両王の娘フアナ(1479年 – 1555年)の長男であるハプスブルク家のカルロス1世(カール5世(神聖ローマ皇帝))に受け継がれ、スペイン・ハプスブルク朝が成立する。ナポリ王国
かつて南イタリアはナポリ王国という国だった。1443年、スペインのアラゴン家が征服王朝を開き、二代目のフェルディナンドが分家して王位を継いだが、86年以降は主家と不仲だった。なお、前王朝のフランスのアンジュー家に名目上の王位継承権が残されていた。 フェルディナンド王は王権の強化を図り、反発した有力貴族たちは反乱を起こした。王は偽りの和平を結び、彼ら貴族をカステル・ヌオヴォ城の大広間の祝宴に招いて虐殺し剥製にした。また、その子アルフォンソ王太子は、史実では、最新鋭の大砲を使ってトルコ軍を撃退している。トプカプ宮殿
ジェムの4人の妻が滞在しているトプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、現在見られる姿を保ちつづけているわけではないが、現在は博物館として公開されている。イスタンブール歴史地域(トルコ)として世界遺産の文化遺産に登録されている。カンタレラ
ボルジア家が政敵を暗殺するのに使った秘伝の毒薬の名とされている。有名な歴史家ヤーコプ・ブルクハルトは、名著『イタリア・ルネサンスの文化』の中で当時の歴史家の記述を引用し、それは純白で、そしておいしいと述べている。渋澤龍彦は『毒薬の手帖』の中で、それがプトマイン(動物等の屍から作った毒)と砒素を混ぜ合わせたものだとしている。しかし、実際にはチェーザレが当時の科学者に、これまでにない毒を発明するよう依頼している手紙が残っていることなどから、カンタレラは単なる伝説であることが分かっている。第4話 政略結婚
次男ホアンはルクレツィアの結婚の祝いに下品な喜劇を準備する。その後、新郎ジョヴァンニ・スフォルツィア卿が虐待的な性的サディストであることに気づいてしまうルクレツィア。この政略結婚は不吉の相を呈していた。一方、チェーザレは密偵を放ち、デッラ・ローヴェレ枢機卿の後を追わせていた。フィレンツェにたどりついたデッラ・ローヴェレ枢機卿は、多大な影響力を持つ大富豪メディチ家とお抱えの悪名高き大使マキャヴェリと同盟を組もうとしていた。ルクレツィアの政略結婚で、持参金の見返りにペーザロ伯の1万の槍と5000の馬を味方につけたボルジア家は、デッラ・ローヴェレ枢機卿がかき集める軍に対抗できるようになったが、アレクサンデル6世(ローマ教皇)は、デッラ・ローヴェレ枢機卿がフランスを巻き込むことを懸念し、新大陸征服の祝福を求めているスペインとの絆を強めることにする。 デッラ・ローヴェレ枢機卿はフィレンツェに渡り、メディチ家の当主ピエロ・デ・メディチとフィレンツェ大使ニッコロ・マキャヴェッリはにフランス軍を何もしないでフィレンツェを通してほしいと交渉する。 イサベル女王がコロンブスが発見した新大陸の征服の祝福を申し入れ、スペインによる蛮族への布教を認める見返りにスペインのアレクサンデル6世(ローマ教皇)への絶対的支援を約束する。 ルクレツィアと結婚したジョヴァンニは初夜に、下品だった結婚式を罵倒しボルジア家への嫌悪を露わにする。
教皇軍
次男のホアン・ボルジアが総司令官を務める。教皇軍は傭兵からなり、その担い手はローマ周辺の傭兵貴族、オルシーニ家やコロンナ家。教会はもともと精神の指導者であり、学問があり、読み書きができたために西ローマ滅亡後も生き残ったが、長い間に教皇庁を中心とした勢力を作り、その結果、世俗世界での勢力争いに巻き込まれるようになった。しかし、貴族や王などの軍事組織が起源ではない教皇国家には軍がなく、名目上とはいえその領地を維持するために、同盟国の軍事力を頼りつつ、ルネサンス期特有の傭兵を雇って教皇庁の軍としていた。托鉢修道会
修道会とは、本来、神を瞑想するための集まりである。そのため、修道院は当初、世俗世間との交わりを一切断たれた山の上にあった。しかし、その修道院も寄進などから富裕化し、貴族化すると、それへの批判から、1200年代に、清貧を戒律とし、人々に神の教えを広める目的を持った新たな修道会が出現した。それがフランチェスコ会やドメニコ会などの托鉢修道会である。彼らは修道院を都市のはずれに建て、そこから都市中心部に出かけ、托鉢をしながら布教活動を行った。しかし15世紀には彼らも世俗化し、清貧とは名ばかりで富裕となり、貴族化していた。サン・ピエトロ大聖堂
キリスト教をローマ帝国の国教とした4世紀のコンスタンティヌス大帝は、聖ペテロの墓の上に大聖堂を建立した。その五廊式のバジリカ様式の大聖堂は、前庭を持ち、全長119メートル、幅64メートルだった。これが1500年代まで残っていた旧サン・ピエトロ大聖堂である。本編の大聖堂正面が現在のものと異なっているのは、それを考慮したためであろう。建立から千年以上経過していた1400年代には倒壊が危惧され、アレクサンデル6世(ローマ教皇)も大改築を考えている。実際に、未舗装のサン・ピエトロ広場に面する前庭入口部分の一部は、同教皇が大増築を行った。なお、教皇庁は、聖ペテロの墓の存在が1939年に確認されたとしている。第5話 報復
ルクレツィアは、ハンサムな馬丁パオロと愛を育むことによって冷え切った暴力的な結婚生活から逃避する。パオロはルクレツィアを救おうとジョヴァンニへの報復を企む。一方、チェーザレは、メディチ家を激しく批判している修道士サヴォナローラを火あぶりにすることと引き換えにデッラ・ローヴェレ枢機卿との協力関係を破棄するようマキャヴェリにもちかけていた。次々と敵に攻撃を仕掛けていくチェザーレ。次第に自らも殺人に手を染めることに…。アレクサンデル6世(ローマ教皇)は、ルクレツィアが嫁いだジョヴァンニの親族である副尚書のアスカニオ・スフォルツァに、ジョヴァンニともう一人の親族ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァにアレクサンデル6世(ローマ教皇)の聖座を継続的に支援させるよう命じる。 デッラ・ローヴェレ枢機卿はミラノを訪れ、ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に、フランス軍にミラノの国土を安全に通過させるよう交渉した。 ルドヴィーコ・スフォルツァは甥でミラノ公のジャン・ガレアッツォを床下に監禁してミラノの実権を握っていた。 次男のホアン・ボルジアに、アルフォンソ2世(ナポリ王)の庶子サンチャ・アラゴンとの縁談話が持ち上がるが、ホアンはガンディア公で教皇の嫡出子、教会の騎手である自分と、ナポリ王の庶子でスクイッラーチェ女公では釣り合わないと受け入れないため、末子の13歳のホフレとの結婚を進める。 アスカニオ・スフォルツァは教皇の命を受けて、ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァに、デッラ・ローヴェレ枢機卿の味方をしたら統治権を甥に渡すと告げると、ルドヴィーコは甥のジャン・ガレアッツォを監禁から解き、毒殺し、アレクサンデル6世(ローマ教皇)の要求をはねつける。
第6話 不貞の愛
フランスへ到着したデッラ・ローヴェレ枢機卿は、国王に魅力的な申し出をする。イタリアを占領し、アレクサンデル6世(ローマ教皇)を廃位させ、自分の教皇即位を保証してくれれば、国王のナポリ支配を支持するというのだ。すでにロドリーゴが末息子ホフレと官能的なナポリ王女サンチャを結婚させ、同盟を結んでいたが、実用主義の職業軍人であるフランス国王シャルルは提案を受け入れる。フランスはシャルル8世統治下で、百年戦争の経験を活かして破壊力を増した新型の大砲を開発していた。この頃百年戦争を勝ち抜いたフランスに比べるとイタリアの軍備は大変遅れていた。”大砲”や”火薬”などのイタリア語はまだ無かった。 ウルスラ・ボナデオは夫の遺体が発見され、罪悪感からチェザーレの愛を拒絶し修道院でシスター・マルタとして残りの人生を送る決心をする。 末子のホフレは、ナポリ王の娘サンチャ・アラゴンとの結婚式を挙げ、 スクイッラーチェ領主となった。 デッラ・ローヴェレ枢機卿に急かされ続けていたシャルル8世はナポリ侵攻を決意する。
大砲
1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦で口径の大きな重砲が、百年戦争末期のノルマンディーとボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬匹で運搬可能な強力な攻城砲も出現した。1494年にナポリの王位継承権を争ってシャルル8世(フランス王)がイタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。第7話 蒼ざめた馬
武力ではるかに勝るフランス軍はイタリアへ侵攻し、瞬く間にルッカの町を撃滅させてしまう。イタリアの特権階級は猛攻一つで総崩れするだろうというフランス国王シャルルの思惑どおり、イタリア諸国は敵軍から逃げ惑うばかり。ミラノとジョヴァンニ・スフォルツィアも浮足立つ。フィレンツェが侵攻するフランス軍の領内通行を平穏に認めた今、フランス軍のローマ侵攻を阻むものはなくなった。フランス軍は2万5000以上の軍勢でミラノに向かった。ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)はフランス軍を南へ通過させる。 ミラノの南にある城塞都市ルッカをフランス軍は容易く陥落させ、他のイタリア諸国への見せしめに、女子供構わず殺戮し、略奪し尽くした。 フランスの侵攻を目前に、フェルディナンド1世 (ナポリ王)が逝去する。息子のアルフォンソと、シャルル8世(フランス王)が教皇に王位継承を求める。 アレクサンデル6世(ローマ教皇)はフランス軍に屈すればフィレンツェのメディチ家、パッツィ家、マキャヴェリの政府全体を破門し、サヴォナローラは火刑に処すことと、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿を破門を宣言するが、枢機卿らは難色を示す。 ルクレツィアが嫁いだペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァは、政略結婚で約束していたにも関わらず、ジョヴァンニの親族であるミラノのルドヴィーコがフランス軍の領地通行を認め、ロマーニャのカテリーナ・スヴォルツァのスフォルツァ軍もフランス軍とは戦わず、そしてフィレンツェがフランス軍を受け入れたらジョヴァンニ自身も共に進軍するかもしれないとルクレツィアに告げる。 フィレンツェのメディチ家はルッカの惨状を知り降伏し、フランス軍2万5000の宿の用意と40万ドゥカートの支払い、メディチ家・パッツィ家・ジルベルティ家から人質を出すとういう条件を受けてフランス軍の通過を許可する。 ジュリア・ファルネーゼはアレクサンデル6世(ローマ教皇)に頼まれてペーザロ伯ジョヴァンニの真意を聞きに行く。居合わせたカテリーナ・スヴォルツァとジョヴァンニは、ボルジア家のためには戦わないと宣言する。
城塞都市ルッカ
本編ではシャルル8世率いるフランス軍に蹂躙されるルッカだが、実際にはトスカーナ地方で戦闘はなかった。なぜならフランス軍の目的地はナポリであり、双方とも不必要な戦闘は望まなかったからだ。ではなぜ小都市ルッカが戦闘の描写の舞台に選ばれたのだろうか。それは1500年代の堅固な城の象徴として選ばれたからであろう。現在のルッカ市の旧市街をとりまく城壁はイタリア式築城術によって1544年に建設が開始された。そしてその姿はまさに城塞都市にふさわしく、強力な大砲による砲撃にも耐えられるよう、低い、厚く、斜めに砲弾をそらすべく傾斜のついた城壁の威容を誇っている。第8話 駆け引き
身ごもったルクレツィアは、ジュリアとともにジョヴァンニの邸宅から馬に乗って逃げ出すが、フランス軍に捕らえられてしまう。その頃、落ち込みを隠せないアレクサンデル6世(ローマ教皇)はヴァチカンでホアン率いる数少ない教皇軍に、はかない望みを託していた。しかし、フランス国王シャルルの心を捉えていたルクレツィアが、絶望的に不利な状況に置かれている教皇軍の撤退をホアンに認めさせ、フランス軍をローマに迎え入れる。運命を待ち受ける教皇は…。




教皇の大勅書(カトリック両王の称号)
1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見すると、ポルトガルのジョアン2世は、1479年のアルカソバス協定に基づいて、コロンブスの発見地は自国の領土だと主張した。それに対して、スペインのカトリック両王は、同じスペイン出身の教皇アレクサンデル6世(ローマ教皇)に使節を送って、コロンブスの発見地がスペインのものであることを認める大勅書の発布を求め、教皇は1493年、二度にわたって大勅書を発布し、スペインに有利な裁定を下した。なおカトリック両王の称号が正式に与えられるのは1496年のことである。ロマーニャの同盟軍
ミラノとフランスの連合軍がナポリを目指す場合、北イタリアからナポリを目指すルートには二種類が考えられた。一つは大河ポー川が切り開いたロンバルディア平原を東南に進むルート。もう一つは、アッペンニーノ山脈を越えてトスカーナへ入り、まっすぐローマを越えていくルートである。フランス軍は道の険しい山脈越えを選んだ。なぜならロンバルディア平原の東南部、ロマーニャ地方はイタリアきっての傭兵隊長たちが治める都市国家がいくつも続き、彼らが教皇庁から依頼を受けてロマーニャ地方で同盟軍を組織した場合、フランス軍の後方に位置するヴェネツィア軍と挟撃されることを恐れたのかもしれない。アヴィニョン捕囚
(1309年 – 1377年) 1303年にフィリップ4世(フランス王)とボニファティウス8世(教皇)の対立からフランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件(アナーニ事件)が起こり、教皇はこの直後に病死。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなた。フランス人枢機卿ベルトラン・ド・ゴがクレメンス5世(教皇)になると、フィリップ4世の要請を受け、1308年に教皇庁がローマから南フランスのアヴィニョンに移され、1309年にクレメンス5世はアヴィニョンに座所を定めた。アナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、イタリアはハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝)に侵略されたため、教皇はイタリアに帰れず、フランスアヴィニョンに滞在した。当時のアヴィニョンはプロヴァンス伯領で、ナポリ王家であるアンジュー=シチリア家(カペー家分家)の所領であった。アヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、教皇は全てフランス人である。1348年、クレメンス6世はナポリ女王兼プロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョンを買収、教皇領に組み入れた(フランス革命で没収)。ユリウス・カエサル/マルクス・アントニウス
ガイウス・ユリウス・カエサルは共和政ローマの独裁官だが、ルネサンス期には初代皇帝として扱われた。ガリアで養成した軍隊を率いて、内乱によって乱れるローマの実権を掌握し、強国エジプトを押さえるなど軍事的才幹により活躍した。マルクス・アントニウスはカエサルの副官として軍事に才能を見せたが、カエサル暗殺後、ローマの覇権をかけてカエサルの養子のオクタウィアヌスと争い、敗れて妻クレオパトラとともに自殺した。第9話 審判
ロマーニャの同盟軍、友人、さらには自らの教皇軍にまで見捨てられたアレクサンデル6世(ローマ教皇)は、サン・ピエトロ大聖堂でフランス国王シャルルと一対の対面に臨む。教皇は質素な修道士の装束をまとっていた。教皇の敬虔さに心を動かされたフランス国王シャルルは、ヴァチカンとローマには手を付けずに立ち去ることにし、真の標的であるナポリに向かって南進を続ける。危機をすり抜けたボルジア家は、新たな同盟の構築と裏切り者への迅速な報復を胸に破滅の一歩手前から復活を遂げる。フランス軍の入城でアレクサンデル6世(ローマ教皇)はシャルル8世にナポリ王の権利と、特使という名目でチェーザレを差し出すことに同意し、廃位は免れた。教会と教皇を見捨ててローマから逃げ出した枢機卿らは悔い改める証として財産を提供した。 フランス軍に人質扱いされたチェーザレはミケロットと抜け出してルクレツィアを苦しめた、なおかつ政略結婚による同盟を無視してスフォルツァの援軍を出さなかったペーザロ伯ジョヴァンニを捕らえに行く。 ペーザロ伯ジョヴァンニは性的不能を理由に婚姻の不成立の裁判を受け、性的不能でない証明を実践する屈辱に絶えきれず、離婚を認め、笑いものにされた。 フランス軍はナポリに入城したが、そこはペストで死んだ市民の死体で覆い尽くされていた。
ボルジア家家系図
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ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 シリーズ
ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファーストシーズン 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン 全話あらすじ – 世界の歴史まっぷ登場人物の史実
ボルジア家
ロドリーゴ・ボルジア(アレクサンデル6世)


チェーザレ・ボルジア


ルクレツィア・ボルジア


ホアン・ボルジア


ホフレ・ボルジア


ヴァノッツァ・カッターネイ


ジュリア・ファルネーゼ


ウルスラ・ボナデオ


フィレンツェ
メディチ家
メディチ家はルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭し、フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。ピエロ・デ・メディチ
メディチ家最盛期を築いた父・ロレンツォが1492年に43歳で病死すると、ピエロは20歳の若さで家督を継いだ。1494年、フランス軍がナポリ王国を目指して侵攻した際、抗戦せず独断でフランス軍の入城を許可したため、フィレンツェを追放された。これと一緒にメディチ銀行も破綻し、メディチ家は亡命生活を送ることになる。その後、ピエロはチェーザレ・ボルジアの軍と共に行動していたが、1503年、戦闘で逃走中にガリリャーノ川で溺死した。ピエロの死により、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニ(枢機卿。後のローマ教皇レオ10世)に継承された。ニッコロ・マキャヴェッリ
イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。 マキャヴェッリ家はフィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家であり、父は弁護士で、貧しい階級のものではないが、裕福な家庭の者でもなかった。ジローラモ・サヴォナローラ


その他
ミケロット・コレッラ


ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ


ミラノ公国
ルドヴィーコ・スフォルツァ
スフォルツァ家の当主。通称イル・モーロ。スイス傭兵を統率して、レオナルド・ダ・ヴィンチの初期パトロンとして有名。 1476年に甥ジャン・ガレアッツォ(ミラノ公)の摂政となったが、事実上のミラノの支配者となり、ナポリ王国の王女を娶った甥のジャン・ガレアッツォらをスフォルツァ城から追い出した。カテリーナ・スフォルツァ


アスカニオ・スフォルツァ


ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ
1466年生まれ。ルクレツィア・ボルジアの最初の夫として知られる。アスカニオ・スフォルツァ、カテリーナ・スフォルツァの親戚。1489年に、イタリア貴族ゴンザーガ家のマッダレーナと結婚するが、翌年に死別している。ボルジア家のアレクサンデル6世(ローマ教皇)が教皇位につくと両家の絆を深めるために、ジョバンニにとっては本家とも言えるミラノのスフォルツァ家・カテリーナ・スフォルツァの後押しで、教皇の娘ルクレツィアと政略結婚した。この時新郎は26歳前後、新婦は13歳、持参金は3万1千ドゥカーティで、結婚式は翌年、ヴァチカンで豪華に行われた。しかしこの後、ボルジア家とスフォルツァ家の政略結婚の意味を持たなくなっていくと、1497年、性的不能を理由に結婚は無効となった。ナポリ
フェルディナンド1世(ナポリ王)


アルフォンソ王太子


サンチャ・アラゴン


フランス
シャルル8世(フランス王)


史実との相違
- 1話でチェーザレ・ボルジアが猿を連れて晩餐会に出席するが、1492年のイタリアではまだ猿はいなかった。
- 1942年ではなく1503年にオルシーニ枢機卿(ジンバッティスタオルシーニ)が毒殺されている記録はあるが、1942年にアレクサンデル6世(ローマ教皇)の暗殺を企んだオルシーニ枢機卿は架空の人物。
- ジュリア・ファルネーゼの夫の名はオルシノオルシーニ。
- オスマン帝国の帝位請求者ジェムとルクレツィアの持参金は関係がありません。ジェムはシャルル8世(フランス王)がイタリア戦争の際にフランスに引き渡され、ナポリ遠征に従軍しました。
- その他多数あり。
スペシャル フューチャー
撮影監督の視点
撮影監督: ポール・サロッシー
まだ電気が無かった1400年代の光を、ロウソクと窓からの光を自然に見せる工夫で表現している。 役者の顔をより際立たせる光の当て方に一番注意を注ぎ物語の根幹としている。背景やセットが見えなくても役者の表情で物語が伝わるようどんなシーンでもベストな表情を捉えている。 撮影はハンガリーのブタペストのコーダ・スタジオで行われた。 ルネサンスのローマの町並みを再現し、広大な規模のセットでの撮影は膨大なディテールの精密なコントロールというロケにはない作業が要求される。 巨大なサン・ピエトロ大聖堂のセットを作るだけでなく、本物に見えるような照明を模索し、あらゆる視覚効果を駆使して、できる限り本物に近づけて壮大なスケール感を再現している。中世ローマの再現
プロダクションデザイン: フランソワ・セギン
当時のローマは人口5万人の小さな村で、100万人以上がいたシーザーの時代からは一変していた。その小さな村を成長させようとそれぞれの教皇が試みた。 サン・ピエトロ大聖堂とあの大広場はムッソリーニが建てたものだ。1930年まではボルゴと呼ばれ、観光地化された現在の姿より中世の趣が強かった。建築当時の姿まで遡って原型を再現する。そこにはルネサンス時代とローマ時代の中世の香が漂っている。 およそ4ヶ月かけて、5つのスタジオに複数のセットを組み立てた。壁は移動式で扉の位置を変えたり背景やフレスコ画を入れ替えたり回転させたり、1階と2階を使い分けるなど工夫を施してパズルのように組み合わせてあらゆる設定に対応する。一時は200人以上の大工と塗装工と内装工が撮影所に集まっていた。 よりリアルなセットの内装はコンピューターとプリンターの進化のおかげ。床のモザイクもすべて印刷だ。大理石のサンプルを使って風化させ色付けした後モザイク模様を印刷した。衣装について
衣装デザイン: ガブリエラ・パスクーチ
盛大な戴冠式のシーンで、ボルジア家の権力の歴史がその第一歩を踏み出す日。ただそれは思いのほか長くは続かない。アレクサンデル6世(ローマ教皇)は1506年頃死去したため、ほんの数年だった。肖像画の教皇は美形ではないものの、力強さを感じさせるとても魅力的な方。多くの否定的な意見を退けて教皇の座に就くには知性と人間的な魅力が不可欠です。 衣装の生地はイタリア、枢機卿の衣装の記事はナポリ近郊の聖職者用の生地を専門に作る工場に発注。新たに制作したドレスの9割はハンガリーの工房で制作。 エキストラの数は毎日350人ほど。サン・ピエトロ大聖堂の大広場を埋めるには2000人が必要。 あらゆる資料を集め、絵画や写真から得るインスピレーションをもとに衣装の構想を練る。ルネサンス期は画家が多かった。DVD
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