恕の人 -孔子伝-
「恕」とは相手の気持を考えること、すなわち思いやり。人を和ませ、あたたかい心があふれ出すー
今から約500年前、孔子はこの世に生を受けた。生涯をかけて仁・義・礼・智・信の心を説き続けた孔子は、後に儒教、道徳の始祖と呼ばれるー。
しかし、孔子は完璧な聖人でもなければ、超人でもない。国を転々とし、ついに大業を成し遂げることなく人生を終えた不遇の人なのである。机上の空論ではなく、現実に苦労と挫折を続けた人間が発した言葉だからこそ、「論語」は遥かな時を経て、現代にも語り継がれてきたのだ。
「恕の人 -孔子伝-」は、孔子の波乱万丈な生涯を克明に描いたドラマである。しかも、単なる偉人伝では終わらない。ひとりの女子大生が、孔子についての論文を書こうとするという現代パートがあり、今の若者が徐々に孔子を理解していく様も描かれているのだ。
日本でも近年さまざまな解説本が発行されるなど、「論語」は再評価されている。また、「恕の人 -孔子伝-」の現代パートの主人公が女子大生であるように、「論語」は男性だけでなく、女性にとっての人生の教科書にもなると注目されている。記されているのは、自分磨きの術であり、いい男の見極め方であり、子育ての極意でもあるからだ。孔子が行きた春秋時代と同じぐらいに混沌とした現代、孔子の教え、恕の精神、「論語」は、性別も国籍も関係なく、我々の心に深く染み入り、傷ついた心を癒やしてくれるはずだ。
孔子と弟子たちの生き様は、恕の心ーーすなわち人を思いやる心の大切さを現代人に気付かせてくれるだろう。「恕の人 -孔子伝-」は、孔子の生涯を再現することを通して、「論語」に記された数々の思想、英知、哲学を、行きた言葉として伝えるドラマなのである。
公式サイトより抜粋
恕の人 -孔子伝-
登場人物
家族
孔子(孔丘)
孔丘(こうきゅう)。字は仲尼(ちゅうじ) (紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)。魯の国で生まれ、3歳の時に父を亡くし、巫女である母親と貧しい生活を送るが、その母も17歳の時に亡くす。19歳で結婚し、長男の孔鯉(こうり)を儲ける。地方役人として働く一方、勉学に勤(いそ)しみ、若くして子路ら弟子を持つ。30代になると、周の国へ移り、老子から教えを受ける。その後、魯の国へ戻って私塾を開き、一層教育に力を入れ始める。魯で謀反が起きて混乱に陥った時、52歳の孔子は君主から行政官僚に任命され、その後大司寇の座に登り詰める。しかし、隣国の斉の策略によって、失脚させられた孔子は、弟子たちを連れて国外放浪の旅に出る。衛、宋、陳、楚など各国に活躍の場を求めるが、仕官することは叶わず、14年間もの亡命生活を送る。68歳でようやく祖国へ戻ることのできた孔子は、学校を開いて3000人もの弟子を育てる。「書経」「春秋」「礼記」など儒教の本を後世に遺し、73歳でその生涯を閉じた。
顔徴在(がんちょうざい)
孔丘の母
叔梁紇(しゅくりょうこつ)
孔丘の父。三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で腕力に優れたと伝わる。孔丘が3歳の時に亡くなる。
?後に、防山の叔梁紇の墓は孔林(こうりん)と呼ばれる孔子とその一族の墓所となり、ユネスコの世界遺産に登録される。
孟皮(もうひ)
孔子の異母兄。孔子の母・顔徴在の死後、孔子に頼まれて一緒に叔梁紇の墓を探す。
幵官(けいかん)氏
孔丘の妻。孔丘が19歳の時に結婚し、孔鯉を儲ける。
孔鯉(こうり)
孔丘の長男。母・幵官氏。父・孫子が国外放浪の旅に出ている間、母の身の回りの世話をする。
孔伋(こうきゅう)
孔鯉の子。孫子の孫。字は子思(しし)。幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はほとんどないが、曾子(そうし)の教えを受け儒家の道を極めた。その後、各国を遊学したのち、魯の穆公(ぼくこう)に仕えた。孟子(もうし)は子思(しし)の学派から儒学を学んだとされる。
弟子
子路(しろ)
孔門十哲・政事仲由。季路とも呼ばれる。
紀元前542年〜紀元前480年。魯の出身。孔子の弟子の中では最年長で、付き合いも一番長い。孔子門下には珍しい武闘派の豪傑で、軽率な言動をトルこともあるが、孔子にも遠慮なく苦言を呈するなど、裏表のない性格が孔子に愛され、「論語」に登場する回数が最も多い。衛の実力者である孔悝(こうかい)に気に入られたことで、要所の防衛官に抜擢されるが、内乱勃発時に命を落としてしまう。孔子は内乱が起きたと聞いた時点で、子路の死を予言していた。
顔路
顔回の父。
顔回(がんかい)
孔門十哲・徳行。字は子淵(しえん)。顔淵(がんえん)ともいう。
紀元前521年〜紀元前490年。
魯の出身。子路、子貢らと共に孔門十哲の一人に数えられ、随一の秀才と言われた。孔子にとって一番の愛弟子であり、「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」など、「論語」の中でも度々賞賛されている。地位や名声を求めず、質素な生活を生涯続け、孔子の教えを実践することに務めた。孔子の後継者と誰からも認められていたが、孔子との長い亡命の旅を終えた翌年に急逝(きゅうせい)。孔子は「天子を喪(ほろ)ごせり」と嘆いた。顔淵死、子曰、噫天喪予、天喪予
宰我(さいが)
孔門十哲・言語。字は子我。何事も疑う反逆精神を持ち、緻密に考え、弁が立った。13年間の旅を終え孔子一行が魯に戻ると、宰我はひとり斉国へ旅立った。一度は斉で大使となったが望んだような功績を上げることはできなかった。
冉求(ぜんきゅう)
孔門十哲・政事。字は子有(しゆう)。冉有(ぜんゆう)ともいう。
行政手腕に優れ季氏に用いられる。孔子からも政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評された。一方、消極的な人柄であったと思しく、孔子から「聞くままに斯れこれを行え」と激励されている。『論語』雍也篇および子路篇では「冉子」と呼ばれている。
子貢(しこう)
孔門十哲・言語。端木賜(たんぼくし)。
紀元前520年〜紀元前446年。衛の出身。
大商人の息子で、商才があり、孔子を財務的に支えた。また、機知に富んだ話術を駆使し、外交手腕を発揮。衛や楚で窮地に陥った孔子を救ったのも、抜群の交渉力で権力者を味方につけた子貢だった。孔子よりも弁舌が優れていると言われることもあったが、その度にいかに孔子が偉大であるかを説き、その言葉にはことわざとして現代に伝わっているものもある。孔子が亡くなると、6年もの間喪に服した。
漆雕啓(しっちょうけい)
七十子。字は子開。漆雕開(しっちょうかい)ともいう。
過去に罪を犯し刑罰を受けたことがあったが、孔子の元で礼を学び君子に近づこうと努力する。片足が不自由。
琴張
顓孫師(せんそんし)。字は子張(しちょう)。(琴の名手)
孔門十哲のなかに子張は含められていないが、『論語』では子路・子貢に次いで出現回数が多く、子張篇の冒頭3節では子張の言葉を伝えているなど、きわめて重要な弟子であったと考えられる。また、『韓非子』顕学篇には儒家八派のひとつとして「子張の儒」があったことを述べている。同じ学派は『荀子』非十二子篇では「子張氏の賤儒」と非難されている。
閔損(びんそん)
孔門十哲・徳行。字は子騫(しけん)。
継母と二人の腹違いの弟にひどい扱いを受けたがそれを父に知られないように耐え抜き、さらに継母たちを弁護までした。
冉耕(ぜんこう)
孔門十哲・徳行。字は伯牛(はくぎゅう)。
『論語』において登場するのは二ヶ所で、一つは孔門十哲に関する記述(先進第十一)、もう一つは冉伯牛が重い病(ハンセン病と伝えられる)にかかり、窓越しに孔子の見舞いを受けた(雍也第六)記述のみである。
原憲(げんけん)
七十子。
司馬耕(しばこう)
七十子。字は子牛(しぎゅう)。宋国を牛耳る司馬桓魋(しばかんたい)の弟。残忍な兄の弟ということで非難を浴びる。
子禽(しきん)
七十子。陳(ちん)亢(こう)。
有若(ゆうじゃく)
孔門十二哲。字は子有。『孟子』滕文公上の伝えるところによると、有若は孔子に風貌が似ていたため、孔子の死後、子夏・子張・子游らが孔子のかわりに有若に仕えようとしたが、曽子がこれを批判したという。『史記』にも似た話があり、他の弟子がかつての孔子の言行について有若に質問をしたが、有若が答えられなかったため、孔子のかわりにはできないと批判されたという。
子羔(しこう)
七十子。衛で士官する。
陳国
陳公
陳の第24大公・湣公(びんこう)。
一度は孔子の重用を考えるが、太史の紀弦に、「孔子は行く先々で災いをもたらしている」と進言を受けいれ、孔子の起用はしなかった。
楚国
楚王
昭王。聡明な君主。孔子に領地を与え召し抱えようとしたが、遠征の途上で没し、孔子の起用は実現できなかった。
子西(しせい)
楚国の令尹(れいいん) (宰相)。昭王の異母兄。
葉公(しょうこう)
楚の葉県の長官(大夫)。蔡の故都、負函。
魯国
春秋時代(紀元前770年-紀元前403年)の魯(首府: 曲阜)は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となる。
国内では、大司徒・季孫(きそん)氏、大司馬・叔孫(しゅくそん)氏、大司空・孟孫(もうそん)氏(仲孫氏)の三桓(さんかん)(第15代君主桓公の子孫)氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。
昭公(しょうこう)
魯国の第23代君主。
李・孟・叔の三桓氏に政と軍の権利を奪われ、特に大司徒の季孫氏にその権力をめせ付けられていた。
季孫氏を討つが失敗し、国を捨てて斉、普へ逃亡した。
郈昭伯(こうしょうはく)
魯国の大夫
定公(ていこう)
魯国の第24代君主。
普から送られた美女たちの虜にり、酒色に溺れ、政も放り出し堕落する。李平子に操られ、結果的に孔子を排除した。
哀公(あいこう)
魯の第27代君主。孔子を14年ぶりに魯に呼び戻すが年老いた孔子を見て重用は見送る。
季孫氏(魯)
李平子(きへいし)
魯国の大司徒。
魯の三桓氏の中でも権力を極めた季孫氏の当主として、政事と軍の実権を握る。陽虎の野心を察して力で押さえ込んでいた。
陽虎(ようこ)
別名: 陽貨(ようか)。季孫氏当主李平子に仕え、季孫斯(季桓子)の代で執事となる。家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れて魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅(ちょうおう)に召抱えられた。
公山弗擾(こうざんふつじょう)
季孫家家臣。陽虎腹心で謀反に加わるが、体制が不利になると李桓子側に寝返える。費邑の宰となり、斉や郈邑(こうゆう)・成邑(せいゆう)と密かに手を結んで魯を倒そうと謀反を起こすが大敗し、斉に逃げる。
季桓子(きかんし)
李平子の子。李平子の後を継ぐ。即位後すぐに陽虎に操られるが、陽虎が追放されると暴君と化した。
梁仲懐(りょちゅうかい)
李孫家の家臣。李平子が自分の亡き後の季桓子を任せる。
季康子(きこうし)
季桓子(きかんし)の亡き後を継ぎ、魯国の大司徒となる。冉求を登用する。
孟孫氏(魯)
孟僖子(もうきし)
魯国の大司空(だいしくう)。
孔子が若い頃から孔子の正々堂々とした振る舞いに感心し、息子二人へ、孔子に従い、「礼」を学ぶよう遺言を残す。
仲孫何忌(ちゅうそんかき)
孟僖子の長男。後に大司空を継ぐ。仲孫閲と共に孔子を魯公に推挙する。
仲孫閲(ちゅうそんえつ)
孟僖子の次男。後に孔子の弟子となる。
叔孫氏(魯)
叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)
叔孫氏の第4代当主。(叔孫宣伯。)斉の霊公の母の声孟子(頃公夫人)に気に入られ、その肝いりで娘を霊公に娶わせたり、卿の地位を約束されるが、叔孫僑如はかつての魯での失敗を鑑み、今度は衛に亡命し、かの地でも卿として重んじられた。斉の景公の外祖父。
叔孫 武叔(しゅくそんぶしゅく)
魯国大司馬。
周国
老子(ろうし)
周国の守藏室之史(書庫の記録官)。偉大な思想家として名高く、孔子は仲孫無忌(ちゅうそんかき)と仲孫閲(ちゅうそんえつ)に誘われて周へ会いに行き、教えを請う。影響を受け魯で学校を開くきっかけにもなった。
斉国
景公(けいこう)
斉の第26代君主。母は魯の宰相叔孫僑如の娘。
晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴を抜擢した。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は贅沢を好んだ暗君として史書に描かれる場合が多い。
晏嬰(あんえい)
斉の宰相。孫子兵法
にも登場する。
豊かな功績を築き上げ、戦略に長け、君主よりも言葉に重みを持つ存在。斉の宰相として管仲と並び称され、春秋時代を見渡しても一、二を争う名宰相とされている。近代、晏嬰に関する言行録をまとめた「晏子春秋」が発見されている。
高昭子(こうしょうし)
斉の大夫。孔子の友人。
孔子が斉へ亡命した3年間、孔子と弟子たちは高昭子の家で過ごす。斉で孔子を推挙する。
黎鉏(れいしょ)
斉の大夫。
晏嬰と共に、重要なのは国力や兵力であって、孔子などの書生の礼儀は絵空事だと景公に進言し、「夾谷の会」での策略を行う。
衛国
衛公
衛の第29代君主・霊公(れいこう)。孔子が衛を訪れた時は既に高齢で、夫人の南子と太子の間で後継者争いがはじまっていた。
南子(なんし)
霊公の夫人。宋国出身。孔子を尊敬していたことから、手紙をしたため、処刑されそうになっていた孔子たちを救う。美しく清楚な外見だが、以前の交際相手と会うなど、軽率な行動を取ることがあり、孔子から度々教えを受けている間に、特別な関係になったというあらぬ噂を立てられてしまう。その噂を耳にした衛王は床に伏してしまい、さらに南子を敵視していた太子からは暗殺されそうになり、図らずも衛国を混乱に陥れてしまう。
蒯聵(かいかい)
衛国太子。のちの衛の第31代君主・荘公(そうこう)。霊公の夫人である南子の父王・霊公を裏切る、王族らしくない言動を許せず南子を殺そうとしたが失敗。このことが霊公に知らされ、蒯聵は宋に出奔したため、霊公の跡は幼い息子の出公(しゅっこう)が継いだが、孔悝(こうかい)がその実験を握る。晋の趙鞅(ちょうおう)と趙鞅に仕えていた陽虎が介入し、渾良夫(こんりょうふ)を襲い、自分を衛公に立てさせた。
出公(しゅっこう)
衛の第30代および第33代君主。蒯聵の子。父・蒯聵が霊公に放逐されて晋にいたため即位し、まだ15歳に満たなかったため、従兄弟の孔悝(こうかい)が権力を握っていた。
孔悝(こうかい)
大夫。蒯聵の伯父。出公(しゅっこう)が幼かったため代わりに実権を握る。
子路を蒲邑の宰に任命する。
渾良夫(こんりょうふ)
衛国孔悝(こうかい)の家臣。蒯聵の姉と密通している。
顔濁鄒(がんだくすう)
子路の義兄
普国
趙鞅(ちょうおう)
晋の政治家。趙家の当主。紀元前501年、魯で数々の悪名を流して晋に亡命した陽虎を、全家臣の反対を押し切って召し抱えた。
DVD
あらすじ
第1章(1話-6話)
春秋時代の魯国。当時の魯では、君主を差し置いて、李・孟・叔の三大豪族が実権を握っており、特に、冷酷な策略家、陽虎(ようこ)を抱える李家の権力は絶大であった。その頃、17歳で母を亡くした孔子は、父の墓を探し当てて母を弔い、一人で生き抜いていくために葬儀での泣き役を務めていた。病床の母のために物乞いをしていた子路(しろ)と出会った孔子は、その後師弟関係を結ぶのだった。李家の馬飼いとなった孔子は、さらに上を目指して「礼・楽・射・御・書・数」を身につけ、やがて軍曹管理という重職に就く。そして19歳で結婚し、第一子を儲ける。さらに昇進を果たした孔子は、35歳の時、民衆にとって不当な制度を見なおして良策を施行したが、陽虎(ようこ)の反対に遭う。陽虎からの圧力に怒りを覚えた孔子は、自ら職を辞するのだった。東周の老子(ろうし)を訪ねて意見を交わし、思想家であることに誇りを持った孔子は、その後、子路たちと共に「詩」と「礼」の学習に取り組んでいく。
恕の人 -孔子伝- DVD 第1-第12話
第1話 礼の始まり
春秋時代の魯国。母ひとり子ひとりで育った孔子は、17歳で母を亡くし、母の棺と共に座り込んで道行く人に父の墓の場所を尋ね続ける……。幼い頃から儀式や葬儀に精通していた孔子は、母を父と同じ墓に埋葬することが、親に対する“礼”であると考えていたのだった。
- 紀元前542年 魯の第23代君主・襄公(じょうこう)薨去。太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公として君主に即位。
- 紀元前537年 季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現。
- 君子: 学識・人格ともにすぐれた、りっぱな人。人格者。「聖人君子」のこと。
第2話 子路との出会い
腹違いの兄である孟皮(もうひ)の助けを借りて、父と母を同じ墓に埋葬した孔子は、その後葬儀で泣き役をして生計を立てていた。ある日、病床の母のために物乞いをしていた子路(しろ)という少年と出会った孔子は、礼・楽・射・御・書・数の六芸の大切さを説き、その後師弟関係を結ぶのだった。魯国では、季・孟・叔の三大豪族が権力を握っており、中でも陽虎(ようこ)という冷酷な策略家を抱える季平子(きへいし)の力は絶大であった。孔子は季孫家の馬飼いとして働き始める。
- 魯の第25代君主・昭公
- 季孫氏は軍隊を4分割に分け直し、叔孫氏、孟孫氏が1/4、季孫氏が1/2に分配することにより、魯の実権は季孫氏が握ることになる。
第3話 季孫家の宴
季孫家で盛大な宴が催されることになり、孔家を代々続く名門と自負している孔子は、招待を受けていないにも関わらず、正装して季孫家へと赴く。招かれざる客として陽虎らから虐げられた孔子は、魯の君主をないがしろにしている季孫家の横暴に疑問を呈し、「分を越える行いは大罪である」と弁舌を振るうのだった。その夜、孔子の正々堂々とした振る舞いに感心した孟家の孟僖子(もうきし)がやって来て、ふたりは夜を徹して語り合うのだった。
論語、春秋左氏伝、孟子、礼記、史記
第4話 幵官氏と結婚
かつて大宗伯として祭祀や典礼を取り仕切っていたという老人と出会った孔子は、老人から多くを学び、書物や礼器を譲り受ける。季孫家に仕えることに抵抗感を示していた孔子だが、六芸の“数”を活かすことができる軍曹管理という役職に就くことを決意。その有能ぶりから幵官(けんかん)管事という役人に目をかけられ、幵官管事の娘である幵官氏と結婚。やがて第一子が誕生し、魯公より祝いの品として鯉が贈られてきたことから、孔鯉と名付けた。
- 野や山を歩き、賢人を訪ね、礼儀を学び、仁の道を探してきた。だが、自分を高めることができても、人を安らかにすることができないとしたら、高尚な徳を得たとはとても言えない。
- 紀元前534年 孔子19歳のときに宋の幵官(けんかん)氏と結婚する。翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生。
第5話 陽虎との対立
宮廷楽師の師襄子(しじょうし)が奏でる琴の音色に魅了された孔子は、六芸の“楽”を極めるために弟子入りを志願するが、季孫家に仕えていることが理由で断られてしまう。魯の大司空、孟僖子に「孔子に従い、礼を学ぶように」と遺言された息子の仲孫無忌と仲孫閲は、孔子から“孝”についての講釈を受け、いたく感動する。その後、税の徴収や個人への貸し出し業務を行う役職に就いた孔子は、不正な制度を見直すが、陽虎(ようこ)の反対に遭うのだった。
- 紀元前525年 28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず倉庫を管理する委吏に、次に牧場を管理する乗田となった。
- 孔丘の先祖にあたる聖人・弗父何(ふつおか)は宋の国の公位を継ぐはずだったが、厲公(れいこう)にその位を譲った。子孫の正考父(せいこうほ)は3代の君主(戴公(たいこう)・武公(ぶこう)・宣公(せんこう))に仕えた。三度官服を賜るが、常に感謝し、拝礼する度お辞儀は深くなった。全身全霊で国に尽くす謙虚さに誰もが感服した。それ故(ゆえ)に鼎(かなえ)の銘文に、『一命を受けて頭を低くし、再命を受けて体を屈め、三命を受けて身を伏せる。』(
一命而僂,再命而傴,三命而俯,循牆而走
)とある。これが孔丘の行いの由来だ。常に礼儀正しく、暮らしは貧しくとも、誇りを失うことはない。誰の辱めも受けない。 - 孔子: 「生は礼を以て仕え、死しては礼を以て葬り、礼を以て祭る。孝行の道を理解すれば父母に対する孝や愛が天下への大孝となるのです。万人を愛する、これが大孝です。孝の心で政を行い万人を父母と思うこと、これが誠の孝であり忠臣の心得です。」
第6話 老子の教え
陽虎(ようこ)から呼び出された孔子は、ふたりで手を組んで天下を取ることを提案されるが即座に断り、陽虎を怒らせる。陽虎の脅しに腹を立てた孔子は自ら職を辞し、師襄子(しじょうし)に弟子入りを果たすのだった。当時、周の国には偉大な思想家である老子がいた。仲孫無忌(ちゅうそんかき)と仲孫閲(ちゅうそんえつ)に誘われて周へと赴いた孔子は老子と会い、互いに問答する。政治に関しては意見を違えることも多かったが、大いなる刺激を受けた孔子は、魯に戻って学校を開くことを決意する。
- 紀元前518年 周の都である洛陽へ遊学。
- 老子:
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
「道(みち)の道とすべきは、常(つね)の道に非(あら)ず。名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。名無(なな)きは天地(てんち)の始めにして、名有(なあ)るは万物(ばんぶつ)の母なり。故(ゆえ)に常(つね)に無(む)は以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を観(み)んと欲(ほっ)し、常(つね)に有(う)は以(もっ)て其(そ)の徼(きょう)を観んと欲す。この両者は同じきより出(い)でて而(しか)も名を異(こと)にす。同じくこれを玄(げん)と謂(い)う。玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。」
これが「道」だと言い表せる様な道は、永遠不変な道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、永遠不変な名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられた。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。これら万物の二つの姿はそれぞれ名前は違えど、同じ一つの根源から生じている。その根源を「玄 – 深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄、神秘を生み出すさらなる神秘からこの世の全ては生み出されている。 - 老子:
天之道其猶張弓與。髙者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者補之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。
「天の道はそれ猶(な)お弓を張るがごときか。高き者はこれを抑え、下(ひく)き者はこれを挙(あ)ぐ。余りある者はこれを損(そん)じ、足らざる者はこれを補う。天の道は余り有るを損じて而(しか)して足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然(しか)らず、足らざるを損じて以(も)って余り有るに奉(ほう)ず。孰(た)れか能(よ)く余り有りて以って天下に奉ぜん。唯(た)だ有道の者のみ。ここを以って聖人は、為(な)して而も恃(たの)まず、功成りて而も処(お)らず、それ賢を見(あら)わす欲(ほっ)せず。」
無為自然の天の道は、弓に弦を張るときと似ている。上の部分は下に引き下げ、下の部分は上に引き上げる。弦の長さが長すぎれば短くし、短すぎればつぎ足す。この様に天の道は余った所を減らして足りない所を補っているのだ。しかし人の世の道はそれとは逆で、足りない所からさらに奪って余っている所に補っている。自らに余るものを人々に分け与える者は誰であろうか。それは「道」を知った者だけである。そうして「道」を知った聖人は、何かを成し遂げてもそれに頼らず、過去の功績にいつまでもしがみつかず、自分の賢さを人に誇る事も無い。 - 老子: 「天下泰平は天の道に従うことで得られる。」
孔子: 「君主がその道理を理解するように導くには?」
老子: 「君主に道理など理解できない。君主には国家があり、地位があり、軍があり、武器がある。法律があって、牢獄がある。そなたが言う道理を聞き入れると思うか。」 - 老子: 「富者は人を送るに財を以(もっ)てし知者は人を送るに言(げん)を以てす」
金持ちは人を送別するときには、はなむけとして金銭を贈るが、仁徳の者は、その人のためになるよい言葉を贈る。 - 老子: 「聡明で他人を謗ることを好む者は死の近くに身を置く。雄弁で他人の悪事を暴く者は危険が身に迫るものだ。人というものは己の利益を考えてはいけない。臣下の立場なら己の考えなど持ってはいけない。」
孔子: 「私の理想はまず一つの国を仁と義のある国にし模範として示すことです。それを諸国が見て学ぶことこそ私の目指すところです。」
老子: 「天下に道があれば礼を問う必要はない。
礼は乱の始めなり。道を失いて後、徳あり。徳を失いて後、仁あり。仁を失いて後、義あり。義を失いて後、礼あり。礼が求められるのは道が失われている時だ。礼を問うからには天下は大いに乱れているのだな。」
孔子: 「……。」
老子: 「歯はまだあるかな。」「舌はまだあるかな。」
孔子の解釈: 歯が無くなれば、舌に頼るしかない。正しい考えは君子にあると言っても誰も信じない。諸侯の行いは討伐だ。兵力、つまり歯で武装している。君子のやり方は舌戦であり、道理を踏まえて述べ立てる。歯は最も硬いもの。舌は最も柔らかいもの。最も柔らかいものは最後には最も硬いものに勝つということ。柔弱は必ず剛強に勝つ。 - 帰国後世界初の学校(私塾)を開く(弟子をとる)。
第2章(7話-12話)
闘鶏がきっかけで魯王と李家の間に内戦が勃発し、敗れた楚王は国外へは国外へ逃亡。仕えるべき君主を失った孔子は、弟子と共に斉の国へ移る。国王から気に入られて一時は官位を約束された孔子だが、宰相の晏嬰(あんえい)から反感を買ったため、結局役職を得ることは叶わず、失意のうちに魯へと戻る。魯では、先代の魯王がすでに逝去し、李家も世代交代を果たしていたが、陽虎の権力は健在だった。孔子は、清貧で頭脳明晰な顔回、豪快な正確で武術に秀でた子路、大商人の子で商才に長けた子貢ら、弟子の教育に没頭する。
陽虎が謀反を起こし、李家の李桓子を殺害しようとして失敗、李桓子は孟家と叔家に助けられる。この混乱を機に実権を取り戻そうとした魯の君主・定公は、斉で名を成した孔子を行政官僚に抜擢する。孔子はすぐにその実力を発揮し、立法や政策に尽力する。孔子が商売の公平を提言したことで魯が繁栄を遂げると、斉の晏嬰は脅威に感じ始め、定公の暗殺を画策。軍事競演時に実行しようとするが、孔子がそれを阻止し、平和を訴えるのだった。
第7話 斉の国へ
私塾を開いた孔子は、子路(しろ)や顔路ら長年の弟子をはじめ、仲孫閲(ちゅうそんえつ)や顔回といった若い生徒たちと日々学問に精を出していた。一方、魯王の昭公と季平子の間では闘鶏がきっかけで内戦が勃発。孟家と叔家の助けを借りた季家が勝利し、昭公は逃亡。その後、横暴な季家に対して孟家と叔家が反旗を翻し、魯の国は乱れる……。弟子を連れて斉の国へと向かった孔子は、古い友人である高昭子(こうしょうし)の紹介を受けて、斉王の景公に謁見する機会を得るのだった。
- 宥座之器(ゆうざのき): 自らを戒めるために用いた道具。器の中が空の時は傾き、水を半分入れれば水平になり、水を満杯にすると倒れてしまう。
孔子: 人の道理を教えてくれる。虚なれば傾き、中なれば正しく、満れば覆る。
「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て。」(故事) 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
「子曰く、学びて時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや。朋有り(ともあり)、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして慍(いきど)おらず、亦君子ならずや。 」
読むべき本があるのは楽しきこと。 友が訪ねてくることも楽しきこと。 名誉を求めず冷静であれば君子となれる。それも楽しきことだ。- 紀元前517年、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。この途上で
苛政は虎よりも猛なり
の故事が起こった(当作では虎とは違う表現をしている)。この間、魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。 齊景公問政於孔子。孔子對曰。君君臣臣。父父子子。公曰。善哉。信如君不君。臣不臣。父不父。子不子。雖有粟。吾得而食諸。
「斉せいの景公(けいこう)、政(まつりごと)を孔子に問とう。孔子対(こた)えて曰(いわ)く、君(きみ)君(きみ)たり、臣(しん)臣(しん)たり。父(ちち)父(ちち)たり、子(こ)子(こ)たり。公(こう)曰(いわ)く、善いかな。信(まこと)に如(も)し君君(きみきみ)たらず、臣臣(しんしん)たらず、父父(ちちちち)たらず、子子(ここ)たらずんば、粟(ぞく)有りと雖(いえど)も、吾(われ)得て諸(これ)を食(くら)わんや。」
斉の景公(けいこう)が先師に政治について問われた。先師はこたえていわれた。君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの道をつくす、それだけのことでございます。景公がいわれた。善い言葉だ。なるほど君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくないとすれば、財政がどんなにゆたかであっても、自分は安んじて食うことはできないだろう。(下村湖人「現代訳論語」)
第8話 斉での失意
孔子は斉の宰相、晏嬰(あんえい)と酒を酌み交わす。表向きは友好関係が結ばれたかに見えたが、孔子が晏嬰の面前で晏嬰を批難したことにより、孔子に与えられるはずだった役職は取り下げられる。失意の孔子は、斉の国を去り魯に戻ることを決意する。魯では、国外逃亡した昭公が死去し、弟の定公が即位していた。季孫家でも季恒子が季平子の後を継ぎ世代交代を果たしていた。孔子の元には、衛国の大商人の子である子貢が弟子入りにやってくる。
- 晏嬰が景公へ孔子について: 「書生とは傲岸不遜。嘘が巧みな輩。大ぼら吹きです。何年掛けても学問や礼など極められません。」(孔子は自分で気づかぬうちに、そう言われても仕方がない程の失態を晏嬰に犯している。)
- 紀元前516年、斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰がこれを阻んだ。また、孔子は斉の臨淄の音楽に、3ヶ月間肉の味がわからなくなるほど感銘を受ける。
- 紀元前517年、孔子は魯へと戻った。
第9話 “恕”の心
病に伏せていた季平子が亡くなる。陽虎は新しい主君である季恒子に仕える身でありながら、公山ら季孫家の家臣を抱き込んで実権を握ろうとしていた。陽虎のことをよく知る孔子は、季平子死去の知らせを聞いて魯の行く末を不安に思うのだった……。孔子の弟子となった子貢は非常に弁が立つ聡明な男で、孔子とよく問答をしていた。孔子は子貢に「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」という言葉を伝え、“恕”の心の大切さを説く。
孔子曰。君子有九思。視思明。聽思聰。色思温。貌思恭。言思忠。事思敬。疑思問。忿思難。見得思義。
「孔子曰く、君子に九思(きゅうし)有り。視(み)るには明(めい)を思い、聴くには聡(そう)を思い、色は温(おん)を思い、貌(かたち)は恭(きょう)を思い、言(げん)は忠(ちゅう)を思い、事(こと)は敬(けい)を思い、疑(うたが)いには問(とう)を思い、忿(いか)りには難(なん)を思い、得(う)るを見ては義(ぎ)を思う。」
道徳心のあるものが日頃から気をつけなければならない9つのこと。物事を見極めるまでよく観察しているかどうか、人に聞いた話は聡明に判断できているかどうか、穏やかな表情を見せているかどうか、人に接する際、恭(うやうや)しく礼儀正しいかどうか、誠実な言葉で人と話をしているかどうか、やるべき事を勤勉におこなっているかどうか、疑問を解こうと務めているかどうか、怒りを露(あら)わにすることでもたらされる結果を見通しているかどうか。得ようとする利益が道義に見合うか見定めているかどうか。- 「仁」の基本は「忠」「恕」の二文字であらわせる。「忠」とはつくすこと。誠意を尽くし全力を尽くすこと。「恕」は人に良くすること。己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所(ところ)は人に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ。
- 六芸(りくげい): 中国古代において、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養。礼・楽・射・馭(御)・書・数
第10話 陽虎の反乱
民心を掴むために孔子の名声を利用しようと企む陽虎は、官職を餌に孔子を釣ろうとするが、孔子は取り合わない。それでも権力を我が物にするために躍起な陽虎は、季孫家の先祖を祀る儀式で季恒子の暗殺を画策。勘付いた季恒子が孟家の孟懿子に助けを求めたことから、孟家と陽虎の間で戦が始まるのだった。
孔子曰。生而知之者上也。學而知之者次也。困而學之又其次也。困而不學。民斯爲下矣。
孔子曰く、生まれながらにして之(これ)を知る者は上(じょう)なり。学びて之を知る者は次(つぎ)なり。困(くるし)みて之を学ぶは又(また)其(その)次なり。困みて学ばざるは、民(たみ)にして斯(これ)を下(げ)と為(な)す。- 紀元前502年、陽虎は家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放される。
第11話 孔子、仕官す
叔家の援軍が孟家に到着すると、陽虎の腹心であるはずの公山が李桓子側に寝返り、陽虎は逃亡する。李孫家の実権をようやく取り戻した李桓子は、反動から暴君と化し、謀反に加担した疑いのある家臣を処刑。李桓子の暴挙を目撃した孟懿子は、三桓の力関係が李孫家に傾くのを恐れ、魯の定公に孔子を推挙する。定公に拝謁した孔子は、魯を再興するためには三桓による政権掌握を打破すべきだと進言し、定公もまたこれに同意するのだった。
- 世界の4大聖人: イエス・キリスト、ソクラテス、釈迦、孔子
- 世界遺産・三孔 曲阜にある孔子ゆかりの史跡、孔府、孔廟、孔林。
- 定公は実権を取り戻すために三桓に対抗する勢力が必要だったため、孔子は実力も兼ね備え、たった3年で大司寇になった。
第12話 斉との同盟
大司寇の地位に就いた孔子は、定公に斉との同盟を提案する。一方、斉の宰相である晏嬰と大夫の黎鉏は、同盟を結ぶと見せかけて定公を人質に捕らえ、魯を攻撃するべきだと景公に進言。景公は会場となる夾谷に兵を潜ませる。同盟を結ぶ式典で軍事競演が始まると、瞬く間に斉は攻撃態勢をとるが、それを制止した孔子は楽隊と合唱隊を入場させ、平和を訴える歌を歌わせる。それに感動した景公は考えを改め、魯との友好を誓うのであった。
- 紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた。
- 紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。
- このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる(盗作では手足を切るのではなく、武器を燃やした。)。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った。
第3章(13話-18話)
孔子は李・孟・叔の三大豪族の余分な土地を回収する「堕三都」を打ち出し、三家から猛反発を受ける。その頃、李家の家臣だった公山が武装発起して魯に攻め入ってくるが、孟家の仲孫何忌の活躍と、孔子の敵軍への説得によって、公山を撤退させることに成功する。しかし、手柄を上げた仲孫何忌が、褒美の代わりに土地を残してほしいと進言したことで、孔子は「堕三都」を断念せざるを得なくなる。
軍事競演を経て、魯と友好関係を築いたかに見えた斉だったが、今度は美女と美食を次々に送り込み、魯を凋落(ちょうらく)させるという奇策に打って出る。魯王がまんまと策にはまってしまったことで、孔子の魯王への影響力がなくなったと見た李・叔氏は、孔子を避難して失脚させるのだった。無念のうちに祖国を後にした孔子は、子貢の故郷である衛国へと辿り着くが、衛王との話は噛み合わず、軟禁状態となってしまう。弟子たちと脱出を試みるが捕らえられ、処刑されそうになったところを皇后である南子夫人に救われるのだった。
恕の人 -孔子伝- DVD 第13-第24話
第13話 三都破壊
夾谷の会盟を成功させたことで魯国での孔子の威信は高まり、機に乗じた孔子は、王室の権威を取り戻すために「三都破壊」の案を定公に進言する。しかし、地位を脅かされることを恐れた季桓子、叔孫らはこれに猛反発し、孔子を疎ましく思い始めるのだった。その頃、斉に囚われていた陽虎は脱走して晋に逃れ、公山は費邑の都宰となって斉や郈邑・成邑と密かに手を結んで魯を倒そうと画策するなど、各地で不穏分子が生まれつつあった……。
- 紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦した。
第14話 公山の謀反
費邑の公山と郈邑の侯犯が手を組んで謀反を起こすが、李・叔・孟家の大軍勢に敗れ、公山は逃亡する。孔子が進める三都破壊計画の最後は孟家の領地である成邑のはずだったが、公山との戦いにおける成邑都宰の公斂陽の活躍を孟懿子が定公に訴えたことで、その功績による成邑城壁の存続が決定。計画が頓挫した孔子は失意の日々を送ることになる。一方、隣国の斉では、景公が魯の混乱に乗じて孔子を排除しようと、李桓子との接触を図る。
第15話 定公の堕落
季桓子が連れてきた斉国の美女たちの虜になった定公は、季桓子に城壁の再建を許可。さらに、孔子たちが懸命に準備を調えた郊祭にも主宰者でありながら姿を見せぬほど堕落しきってしまう。それでもなお、孔子は周囲の制止も聞かず、定公に三都破壊の重要性を説こうと躍起になるが、季孫家へ書簡を届けにいった子路が袋詰めで門の外に放置されたり、孔子の家の門が倒されたりと、季孫家、叔孫家の脅しと思われる事件が相次いで起こる。
第16話 魯国を去る
家に火を放たれた孔子は、子貢の説得もあり、ついに魯を去る決心を固める。最後に定公に別れを告げに行くが一目会うことも叶わなかった。妻の幵官氏と息子の孔鯉を残し、弟子たちを連れて魯を後にした孔子は、新天地を求めて旅を続け、子貢の祖国である衛国に辿り着く。さっそく衛の役人がやってきて、衛公が孔子を登用する意向だと言う。しかし、宮廷内では高齢な衛公の陰で太子派と夫人派の間で激しい勢力争いが起こっていた。
- 紀元前497年、官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出る。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。
第17話 死刑の危機
孔子はついに衛の霊公に謁見が許されるが、霊公に礼を重んじる心はなく、実権も失っていることがわかる。その後、孔子は太子の腹心である王公叔から太子陣営に付くようにと圧力をかけられ、それを断ると、滞在先に見張りの兵をつけられて軟禁状態となってしまう。弟子たちと脱出した孔子だが、途中で兵に捕らえられ、死刑に処されることになる。顔回は孔子と共に死刑になる覚悟で牢に入り、子貢は夫人陣営に助けを求めに行く……。
- 紀元前497年、衛の霊公に謁見。
第18話 南子夫人からの手紙
死刑執行を待ちながら、顔回が柱に孔子の言葉を刻み始めると、孔子は「私が死んでも私の言葉は生き続ける」と喜ぶ。死刑が今にも執行されようとした時、南子夫人からの手紙が届き、孔子たちは難を逃れる。実は、孔子は陽虎と間違えられて捕らえられていたのだった。孔子たちは命の恩人である衛の南子夫人のもとへ向かおうとするが、公叔戌(こうしゅくじゅ)(衛国の大夫)という男が霊公に対して謀反を起こしたため、蒲邑(ほゆう)という辺鄙な村で足止めされてしまう……。
- 中国の歴史上最古の冤罪と言われている。
第4章(19話-24話)
南子夫人のおかげで衛国に迎え入れられた孔子一行だったが、弟子の子頁は、太子と衛王には孔子を重用するつもりがないことを突き止める。その後、太子は邪魔な南子夫人を殺害しようとして失敗、逃亡先で陽虎と出会い、衛の政権を奪うために普国に協力を求める。一方孔子は、危機的状況になった衛を救おうと奔走するが無駄足に終わり、妻の故郷である宋へ向かう。宋郊外に辿り着くも、暗殺を目論む一団から逃げているうちに、孔子は過労で倒れてしまう。医者からも見放されるほど衰弱しきった孔子を見て子路たちは葬儀の準備を始めるが、ちょうど準備が整った頃、孔子は意識を取り戻し「国が大変な時に、私個人のために盛大な葬儀をするべきではない」と叱責するのだった。逝去(せいきょ)した衛王に代わって幼い息子が即位したのを機に、太子が陽虎と共に衛を襲撃するが政権奪取は失敗に終わる。同じ頃、孔子の元に普国の宰相・趙鞅(ちょうおう)がやって来て、普国を救うために参政を求め、孔子はこれを受託。普へ向かう途中に趙鞅の駐屯地を訪れるが、辺り一面死体の山が築かれていた。陽虎に襲撃されたのである。趙鞅亡き今、普へ向かう理由がなくなってしまった孔子は、行き先を陳国に変えるのだった。
第19話 衛への帰還
孔子は衛国に戻ることに成功し、以前とは態度が豹変した霊公の歓迎を受ける。その後、南子に会った孔子は、女性の扱いに慣れていないため、ろくに話もできずに帰宅してしまうが、衛の太子・蒯聵は孔子が南子側についたのではないかと疑念を抱くのだった。その頃、陽虎は晋の卿大夫である趙鞅に取り入ろうとしていた……。
第20話 南子の寵愛
南子に気に入られた孔子は毎日のように宮中に呼び出されるが、遊びに付き合わされるばかり。弟子たちも、孔子が南子の色香に惑わされているのではないかと心配する。その南子は霊公の目を盗んで、将軍の弥子暇や、故郷から訪ねてきた幼馴染みの元恋人、宋朝と密会していた。子貢は、いつになったら霊公は孔子に要職を与えるつもりなのかと宦官の雍渠に探りを入れるが、霊公が南子の機嫌を取るために孔子を厚遇しているだけだと知る。
第21話 蒯聵(かいかい)の出奔(しゅっぽん)
孔子と南子の関係を邪推する者も現れ始めたことで、ついに孔子は弟子たちと共に衛を出て宋へ向かう決意を固める。太子の蒯聵(かいかい)は、南子暗殺を企み、腹心の戯陽速を差し向けるが、南子の寝室には密会中の宋朝がいたため暗殺は失敗に終わる。罪に問われることを恐れた蒯聵は衛を出奔。宋を経て晋へ入ったところで陽虎の手に落ちてしまう。蒯聵という衛攻略の切り札を陽虎から献上された趙鞅は、陽虎に左司馬の地位を授けるのだった。
第22話 鄭の疫病
母を見舞うために魯に戻っていた冉求は、幵官氏から靴や食べ物を預かってくる。冉求から妻子の無事を知らされた孔子は安堵するが、魯の定公が死去したとの知らせには大いに落胆するのだった。定公を弔う祭祀を行った孔子は、宋国を牛耳る司馬桓魋に他国の君主を弔った罪を問われ、命を狙われる羽目に陥る。司馬桓魋の弟で、孔子に弟子入りしていた司馬牛は、なんとか孔子たちを鄭の国まで逃すが、鄭では疫病が蔓延していた……。
- 紀元前495年、魯の第26代君主・定公死去。
- 紀元前494年、魯の第27代君主・哀公(あいこう)(定公の子)即位。
第23話 子路の失踪
疫病にかかって危篤状態だった司馬牛が回復の兆しを見せると、今度は司馬牛のために琴を弾いていた孔子が病に倒れる。意識不明となり、医者からも見放されてしまった孔子の身を案じて、子路は仲間たちの反対を押し切って、本来は諸侯にしか許されぬはずの葬礼や祈祷を強行する。その甲斐もあってか、孔子は死の淵から生還を果たすが、分不相応な儀式を行った子路は叱責される。深く傷ついた子路は夜のうちに姿を消してしまう。
第24話 陳国へ
衛の霊公が逝去し、南子夫人は太子蒯聵の幼い息子を即位させようとする。晋で趙鞅に仕える陽虎は、蒯聵(かいかい)を連れて弔問に訪れるふりをして衛に奇襲をかけようとして失敗。しかし、その帰途で中牟の城を攻め落とすことに成功する。魯出身者の有用性に気付いた趙鞅は、陽虎と同じ魯出身である孔子を登用しようと考える。孔子もその要請を一度は受け入れるが、陽虎に惨殺された人々の死体を目にし、行き先を陳の国へと変えるのだった。
- 紀元前493年、衛の第29代君主・霊公薨去。衛の第30代君主・出公(蒯聵(かいかい)の子)即位。
- 普の実力者仏肸(ひっきつ)が范氏と結託して中牟で謀反を起こし、趙鞅は見せしめとして中牟の民を皆殺しにする。
第5章(25話-30話)
陳王に気に入られた孔子であったが、またしても臣下の妨害に遭う。さらに呉が攻め入ってきたために、弟子たちを連れて陳を後にするのだった。
餓死寸前のところに、孔子を尊敬するという楚王から任命状と金が届き、孔子一行は命を長らえる。しかし、孔子を快く思わない楚王臣下の子西の邪魔立てによって、依然として行く宛のない身のままとなる。子頁は子西から自分の配下になるようにと脅されるが、「あなたは毎日この土を踏んでいるが、大地の大きさをご存じない。」と孔子がいかに器の大きな人間であるかを表現して断るのだった。結局、孔子たちは楚ではなく、楚の領土である葉国へと向かうことになる。その後、葉に楚王が来るとの知らせに孔子は喜ぶが、到着したのは楚王の遺体だった。
路頭に迷った孔子たちは衛国に戻ることを決意する。衛国では三代目が王位を継いでいたが、実権を握っていたのは王の伯父・孔裡であった。賄賂を送って孔子を抱き込もうとする孔裡の誘いを孔子は固辞するが、子路を街の要職につけたいという申し出は受託し、子路は蒲邑の防衛官となるのだった。
恕の人 -孔子伝- DVD 第25-第35話
第25話 湣公(びんこう)と紀弦
孔子は陳国への道中で、かつて宋の少司空を務めていたという老人と出会う。司馬桓魋に追われた身同士であることから老人と意気投合した孔子は、老人の孫の子元と子貞を弟子にする。陳国に辿り着いた孔子は、さっそく湣公から意見を求められ、見事な返答で湣公を喜ばせる。しかし、太史の紀弦は、「孔子は行く先々で災いをもたらしている」と湣公(びんこう)に進言するのだった。その頃、晋では陽虎が衛国太子蒯聵を懐柔しようとしていた……。
第26話 呉兵の襲撃
魯から戻ってきた冉求は、代替わりした李家の若当主から補佐を頼まれたと語る。孔子は魯の政治が良くなるならばと快く冉求を送り出す。孔子自身は宮廷からの呼び出しを待つ日々を送っていたが、呉と楚の間で戦争が始まり、巻き込まれた陳も争乱状態となる。孔子たちは戦場から遠ざかるように流浪の旅に出るが、呉の部隊に襲撃され、食糧を強奪される。その頃魯では、孔子の身を案じ続けた妻の幵官氏が心労で倒れてしまっていた。
- 魯国の三桓、季孫氏当主・季桓子の後を継いだ季康子(季孫肥)を冉求(ぜんきゅう)が仕えることになる。
- 紀元前496年に呉の第6代王・闔閭(こうりょ)が越との戦いで敗れて殺され、復讐を誓った呉の第7代王・夫差(闔閭の子)(「臥薪嘗胆」)に越王・勾践が攻め込んだが呉は大勝し、夫差は覇者になるべく伸張した国力を背景に北の黄河流域へと進出していた。孫子終盤の頃
第27話 楚王からの知らせ
旅を続ける孔子たちのもとに、楚王から孔子を召し抱えたいとの知らせが届く。喜んだ一行は、楚王が戦のために駐屯している城父へと出立する。しかし、陳の太史・紀弦が蔡の司徒・杜能を訪ね、両国の内情に詳しい孔子が楚に仕官することへの危機感から、策略を持ちかけていた。紀弦と杜能が放った刺客に襲われた孔子たちは、山の上へと追い込まれ、飢えと寒さに苦しむ。失意の底にある孔子を顔回が涙ながらに励ますのだった…。
- 紀元前489年、楚の第2代王・昭王から召し抱えたいとの知らせが届き、孔子は楚に向かう。
第28話 葉公のもとへ
山に追い込まれた孔子は、楚王のもとに子貢を送り、救出隊の出動を願い出る。無事に救出された孔子たちは、戦が激化している城父には向かわず、地方長官・葉公のもとに身を寄せることになる。葉公は、呉との戦で軍事物資が不足していることを打ち明け、物資調達のために子貢を使わせてほしいと孔子に頼むのだった。
昭王(しょうおう)将(まさ)に書社(しょしゃ)の地七百里を以て孔子を封(ほう)ぜんとす。楚(そ)の令尹(れいいん)子西(しせい)曰わく、「王の諸侯に使いせしむるに、子貢の如(ごと)き者有るか。」曰わく、「有る無し。」「王の輔相(ほそう)に、顔回(がんかい)の如き者有るか。」曰わく、「有る無し。」「王の将率(しょうすい)に、子路の如き者有るか。」曰わく、「有る無し。」「王の官尹(かんいん)に宰予(さいよ)如き者有るか。」曰わく、「有る無し。」「且(か)つ楚(そ)の祖(そ)は、周より封(ほう)ぜられ、號(ごう)して子男(しだん)と為(な)し、五十里なりき。今、孔丘は三五(さんご)の法(ほう)を述(の)べ、周・召(しょう)の業(ぎょう)を明らかにせんとす。王(おう)若(も)し之を用(もち)ひば、則(すなは)ち楚は安(いづく)んぞ世世堂堂(よよどうどう)として方(ほう)数千里なるを得(え)んや。夫(そ)れ文王(ぶんのう)は豐(ほう)に在(あ)り、武王(ぶおう)鎬(こう)に在り。百里の君なりしが、卒(つい)に天下に王たりき。今、孔丘、土壌(どじょう)に據(よ)るを得(え)、賢弟子(けんていし)、佐(さ)と為(な)らば、楚(そ)の副(さいわい)に非(あら)ざるなり」と。昭王乃(すなは)ち止む。其の秋、楚の昭王、城父(じょうひ)に卒(しゅつ)す。
第29話 楚王の帰還
戦場に出て勲功を上げる夢を捨てられない子路だったが、葉公に諭され、孔子の側に仕え続ける決心を固める。その頃晋では、衛国太子・蒯聵(かいかい)を頼って衛から渾良夫(こんりょうふ)が転がり込んできていた。陽虎は渾良夫をすぐに衛に送り返し、密偵として利用することを蒯聵に命じる。呉との戦いが激化し、孔子たちも子貢を先頭に兵糧運びなどを手伝うが、戦況は思わしくなく、楚王は撤退を決意。楚王が都に戻ってくると聞いた孔子は出迎えに走るが…。
- 前489年、楚の第33代君主・昭王(しょうおう)、陳を征伐する軍を起こしたが、遠征の途上で没する。
第30話 弟子の旅立ち
一度は故郷の魯に戻ろうとした孔子たちだが、目的地を衛に変える。衛では蒯聵(かいかい)の息子である出公が即位していたが、実権を握っていたのは蒯聵(かいかい)の伯父である孔悝(こうかい)だった。孔悝は、出公即位の正当性を孔子に認めさせようとするが、孔子は固く断る。交渉は決裂したが、孔子が子路を推挙し、孔悝はまた子路の勇猛さを認めたため、子路は衛の重要な防衛拠点である蒲邑の宰に任命される。子路は旅立つ前、孔子に宰としての心得を学ぶのだった。
- 子路: 衛の大夫・孔悝より蒲邑の宰に任命される。
- 子貢: 魯の実力者季康子(きこうし)の要請を受け、使者として呉へ赴き、政治力と外交力を発揮していく。
第6章(31話-35話)
斉と魯の間で全面戦争が勃発し、冉求(ぜんきゅう)の大活躍によって魯が勝利を収める。魯の権力者、季康子が冉求を呼び出し、「どこで学んだのか」と問うと、冉求は「恩師は孔子です」と答えた。このことがきっかけで、孔子は14年ぶりに祖国に戻ることになる。
妻と息子を亡くした孔子は、執筆と教育活動に没頭するようになり、「詩経」「春秋」を記し、さらに易学の研究も始める。やがて、孔子の執筆活動を支えてきた愛弟子の顔回が病で急逝、さらに衛で起きた政変によって子路までもが命を落としたことを知り落胆する。弟子たちを次々に亡くしたことで急激に老いた孔子は、自らも病に倒れ、73年の生涯を終える。子頁は孔子の墓の前で6年間喪に服すのだった。
第31話 幵官氏の死
衛で暮らしながら故郷の魯に思いを馳せる孔子たちのもとに、突然孔鯉がやって来る。孔鯉は、母であり、孔子の妻である幵官氏が亡くなったことを報告に来たのだった。晋の陽虎は、衛に密偵として送り込んだ渾良夫の消息を探るために自ら衛へと赴くが、蒲邑で子路に遭遇。陽虎は逃走したが、捕虜の自供によって陰謀は子路や孔悝の知るところとなる。魯では、斉との戦争に備え、孔子の弟子である冉求がさまざまな戦略を練っていた…。
- 紀元前487年、魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解したが、その後斉にに攻められ敗北した。
- 紀元前485年、魯は呉と斉へ攻め込み大勝した。
- 紀元前484年、斉と魯による稷曲(しゅくきょく)の戦いは、季孫氏に仕えていた孔子の弟子・冉有(ぜんきゅう)と樊遅(はんち)の名を上げた戦いでもあった。
これにより、魯国での孔子の弟子たちの政治的地位が高まり、孔子自身も魯に帰国する機会を得た。
第32話 故郷へ
冉求(ぜんきゅう)が軍事を孔子から学んだと聞いた季康子(きこうし)は、孔子を軍事顧問として魯に呼び戻すことを決意し、君主である哀公(あいこう)の承諾も得る。孔子は弟子を連れ、ついに14年ぶりに魯へと戻り、故郷を守っていた弟子たちと感激の再会を果たす。しかし、勇ましい軍略家を想像していた季康子は年老いた孔子に失望するのだった…。
- 宰我(さいが)は魯に戻らず、活躍の場を求めて斉へ独立独歩する。
第33話 後継者
孔鯉(こうり)が病気で急逝し、孔子は悲しみに暮れる。しかし同じ年に孔鯉の息子であり、後に儒家思想の重要な伝承者となる孔伋(こうきゅう)が誕生し、孔子は失意のうちにも喜びを得るのだった。その後孔子は、季康子が強行した増税や出兵を止めることができなかった冉求(ぜんきゅう)を叱責。魯でも仁政を実現できそうにないと悟った孔子は自らの理想を『春秋』にしたため始める。顔回(がんかい)はそれを竹簡に記し、その上に漆を塗って後世に残すことを考えつき、孔子を喜ばせる。
- 紀元前483年、孔子の長男・孔鯉(こうり)病死。
- 紀元前483年、孔鯉(こうり)の長男・孔伋(こうきゅう)誕生。字は子思(しし)
第34話 弟子たちの死
清貧と病弱の中で長年に渡って孔子に仕えた顔回(がんかい)が病死。最愛の弟子に先立たれた孔子は「天が私を滅ぼす」と嘆き、著作への情熱も失ってしまう。衛では、蒯聵(かいかい)と陽虎(ようこ)が、密偵として送り込んでいた渾良夫(こんりょうふ)の協力でついに行動を起こし、孔悝(こうかい)に夜襲をかける。陽虎たちは、孔悝に現君主を廃して蒯聵を王位に就けるという盟約を強要する。その知らせを受けた子路(しろ)は孔悝を救うために駆けつけ、蒯聵たちの手の者と雄々しく渡り合うが…。
- 紀元前481年、「獲麟(かくりん)」(『春秋』の最後に書かれた出来事:太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない聖獣・麒麟(きりん)が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切った)
- 紀元前481年、顔回病死。
- 紀元前480年、子路命を落とす。
衛の高官にとりたてられたが、反乱で落命した。死の直前、冠の紐を切られた彼は、「君子は冠を正しくして死ぬものだ」と言って結びなおしたという。子路の遺体は「醢(ししびしお)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は悲しみにより、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる。なお、衛に乱があったことを聞いた段階ですでに、孔子は「由は死ぬだろう」と述べたと伝えられる。-『史記』「孔子世家」
第35話 孔子の夢
顔回(がんかい)に続いて子路(しろ)も失った孔子は急激に老い、夢うつつで弟子たちを偲ぶ日々を過ごす。やがて病に冒された孔子はある日、かつて講義した場所、宴に出席しようとして陽虎に笑い者にされた季孫邸、定公と問答した魯宮など、思い出の地をさまよい歩く。山道で子貢に発見された孔子は、自分が見た夢の光景を語り…。
- 紀元前479年、孔子は子貢に自分の夢の光景を語った7日後、この世を去った。享年73歳。
魯の哀公は葬儀に列席し、「天は無情にも君主の私を支えるべき長老を奪い去った。ひとり取り残された私は心を痛めるばかりである。なんと悲しいことなのだ。規範となる人物を失うとは。」と弔辞を述べたが、子貢は「生前には用いてくださらず、死去した後にそうした弔辞を送るとは、礼に背く。
」と答えた。 - 孔子が世を去った後3年の間、弟子たちは寄り添い墓を守った。3年の喪が開けると皆去っていったが、子貢は茅葺きの小屋を立て、ひとりで6年間孔子の墓を守りぬいた。
- 孔子の名前の前にはさまざまな説明が付く。思想家、政治家、教育者、聖人、先師など。どれも孔子の考察、評価を表しているが、歴史上での孔子の意味や価値を示すにはどれも足りない。
何故今人びとは「論語」を読み解くのか。今の時代は日増しに豊かになり物が溢れているが、その生活がもたらすのは充実ではなく、虚しさ、焦り、喪失感や迷い。「論語」を読み解こうとするのは、自分自身を取り戻す気持ち、魂の居場所を求める気持ちなのかもしれない。
原作
トップ画像出典: 中国歴史大河ドラマ『恕の人 〜孔子伝〜』