摂関政治
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摂関政治
藤原氏北家の発展
1 藤原北家の台頭
- 薬子の変(=平城太上天皇の変[810]で藤原●●●が没落
- 同事件の直前、●●●天皇は北家の藤原冬嗣を初代蔵人頭に任命し、北家台頭のきっかけとなる。
2 藤原北家と摂関政治
藤原氏北家と摂関政治
藤原氏 | 年代 | 事件の経過・影響 | 天皇 |
---|---|---|---|
冬嗣 | 810 | 冬嗣、初代苦労度かしらに就任 平城太上天皇(薬子)の変 | 嵯峨天皇 |
[a] | 842 | [b]の変: 皇太子派の伴健岑・橘逸勢ら失脚 | (略) |
858 | 幼少の[c]天皇即位 → 良房、臣下初の実質上の摂政に就任 | 清和天皇 | |
[d] | [e]の変: 大納言[f]が左大臣源信の失脚をはかり放火 → 伴健岑ら流罪 同年、良房、正式に摂政に就任 | ||
872 | 基経(良房の養子)、摂政に就任 | (略) | |
[g] | 884 | 基経の尽力で光孝天皇即位、基経は事実上の[h]に就任 | 光孝天皇 |
887〜 | [i]: [j]天皇の詔勅をめぐり紛議 翌年、詔勅撤回 → 基経に再び関白就任の詔 | 宇多天皇 |
|
[k] | 901 | 宇多天皇、基経死後、摂関置かず親政(寛平の治) 宇多天皇、[L]登用 → 遣唐使中止の建議(894) 右大臣[m]を太宰府に左遷 醍醐天皇の親政: [o] | [n] |
忠平 | 天慶の乱(939〜941): 平将門らが反乱 | (略) | |
[p] | [r] | 村上天皇の親政: [q] [s]の変: [t]の密告により左大臣[u]失脚 → 以後、摂関常置 | 村上天皇 (略) |
a: ●●● b: ●●● c: ●●● d: ●●● e: ●●● f: ●●● g: ●●● h: ●●● i: ●●● j: ●●● k: ●●● l: ●●● m: ●●● n: ●●● o: ●●● p: ●●● q: ●●● r: ●●● s: ●●● t: ●●● u: ●●●
3 天皇親政
摂政・関白をおかず、天皇による親政
- 延喜の治:●●●天皇の親政
- ① 班田を実施(902) 以後、班田を命じる史料は見られなくなる
- ② 延喜の荘園整理令を発令(902) 初の整理令、例外多く不徹底
- ③ ●●●を編纂
- ④ 最後の六国史『●●●』を編纂
- ⑤ 最初の勅撰和歌集『古今和歌集』を撰集
- ⑥ 三善清行が醍醐天皇に「意見封事十二箇条」を上奏
- 天暦の治:●●●天皇の親政
- ① 本朝(皇朝)十二銭の最後にあたる●●●を発行(958)
- ② 延喜式の施行(●●●天皇の死去直後)
チェック
1. 北家の藤原冬嗣の系統が他氏族を排斥したことに関連する9〜10世紀の事件に関して述べた次の文について、古いものから年代順に配列せよ。
- 宇多天皇即位の際の勅書が撤回させられ、関白の政治的地位が高まった。
- 伴健岑・橘逸勢らが謀反をはかったとされ、流罪になった。
- 醍醐天皇の皇子の左大臣源高明が、密告によって大宰府に左遷された。
- 平安宮の応天門の炎は大納言伴善男の陰謀とされ、善男らが配流された。
答え ●●●
2. 藤原北家とそれに関わる政変に関連して述べた次の文の空欄[ア]〜[ウ]に入る人物を答えよ。
- 承和9年、[ア]らが恒貞親王の即位を企てたとして、流罪になった。
- 貞観8年、[イ]が応天門に放火したとして、伊豆に流罪になった。
- 安和2年、[ウ]が為平親王の即位を企てたとして、大宰府に左遷された。
答え [ア]: ●●● [イ]: ●●● [ウ]: ●●●
摂関政治
1 摂政
- 摂政:天皇の幼少時に政務を代行
- 関白:天皇が成人後、その後見役として政務を補佐
摂政・関白とも藤原氏の「氏長者」を兼ねる
2 摂関家の内紛
「氏長者」をめぐる争い(藤原実朝以降)
- 藤原兼通と兼家の兄弟の争い
- 藤原道長と伊周の叔父・甥の争い(敗れた伊周は大宰府に左遷)
3 藤原氏全盛期
天皇と外戚(母方の親戚)関係を結び権力を掌握)
- 藤原●●●:4人の娘をつぎつぎと中宮・皇太子妃として入内させる
- ① ●●●・●●●・●●●の3代の天皇の外祖父(母方の祖父)として権勢を誇る(道長は摂政、内覧=関白に準ずる地位に就任)
- ② ●●●の日記『●●●』に「この世をば 我が世とぞ思う望月の かけたることも 無しと思へば」の長道の和歌
- ③ 華麗な阿弥陀堂の●●●寺を建立し、「御堂関白」と称される
- 藤原●●●:父長道の権勢のもと、3代の天皇在位期間、約50年にわたり摂政・関白の地位 宇治に平等院鳳凰堂を建て、「宇治殿」と称される
- 摂関家は宮中の人事権を掌握 中・下級貴族は摂関家などの家司(事務的な職員)となり、経済的に有利な国司(受領)の地位を熱望
- 重要職務は公卿会議の審議 陣定で決裁、次第に形骸化

国際関係の変化
1 朝鮮半島
新羅(8世紀末国交途絶、商人は来航) 10世紀初頭●●●がおこり、やがて新羅を滅して半島統一
2 中国大陸
- 唐(安史の乱、黄巣の乱などで疲弊 遣唐使中止(894) 唐滅亡(907) 五代十国 宋(北宋)(960) 日本と正式な国交なし、商人・僧の交流は頻繁
- ① 東大寺僧奝然、宋より帰国後 清涼寺(京都)に釈迦如来像を安置(像内に布製の納入品)
- ② 宋との交易品
- 宋から日本へ:書籍・陶磁器・薬品など
- 日本から宋へ:奥州産の●●●・水銀・真珠・硫黄など
- 中国北東部:渤海 10世紀前半●●● のち金(契丹支配下の女真族 刀伊が建国
チェック
1. 藤原兼家・道長が生きた10〜11世紀のことがらとして適当でないものを一つ選べ。
- 皇朝十二銭の最後の貨幣である乾元大宝が鋳造された。
- 貴族の間に流行していた今様などを集めた『梁塵秘抄』が編纂された。
- 三蹟の一人である小野道風が活躍した。
- 貴族社会の生活や感情をつづった『枕草子』が著された。
答え ●●●
2. 菅原道真の建議で遣唐使が停止された後、10世紀の国際関係に関して述べた文として誤っているものを一つ選べ。
- 唐が滅んだのに続いて、それまで国交のあった渤海や新羅も滅んで別の王朝が興った。
- 僧侶たちは中国にわたって寺院などを巡礼し、さまざまな文物を持ち帰った。
- 中国の商船はしばしば九州に来航し、多くの文物をもたらした。
- 国交が途絶えたことから貴族たちの中国文化への関心は減り、男性貴族も平仮名で日記を書くことが一般化した。
答え 4