17.イスラーム世界の発展
- 1. イスラーム帝国の分裂
- 2. 諸民族の自立・台頭
- 3. イスラーム世界の拡大
17.イスラーム世界の発展
1. イスラーム帝国の分裂
アッバース朝が成立すると、ウマイヤ家一族はイベリア半島に移り、756年コルドバを都に後ウマイヤ朝を建て、カリフの称号を用いるようになった。また10世紀初めチュニジアに建国されたファーティマ朝は、建国時からカリフの称号を用いたので、3人のカリフが並び、イスラーム帝国は分裂した。
2. 諸民族の自立・台頭
9世紀になると、東方イスラーム世界の各地で地方軍事政権が自立するようになった。中央アジアでイラン系のサーマーン朝が成立し、さらに西北イランでもイラン系シアー派のブワイフ朝が成立し、ブワイフ朝は946年にバグダードに入城してカリフから大アミールに任じられるとともに、イスラーム法を施行する権限を与えられた。一方、中央アジアの遊牧民であったトルコ人は騎馬戦士としてすぐれていたので、9世紀ごろからマムルークとよばれるトルコ人奴隷がイスラーム諸政権で盛んに用いられるようになり、軍事力の中心となっていった。トルコ人はサーマーン朝の影響を受けイスラーム教に改宗し、10世紀には東西トルキスタンをあわせた最初のトルコ系イスラーム王朝カラハン朝を建国した。また、アフガニスタンを支配したガズナ朝はインドに侵入し、インドのイスラーム化の道を開いた。
中央アジアからおこったトルコ人のセルジューク朝は、1055年、ブワイフ朝を追ってバグダードに入城した。建国者トゥグリル=ベクはアッバース朝のカリフよりスルタンの称号をさずけられた。その結果、イスラーム世界の主導権はトルコ人の手にうつり、カリフは名目的存在にすぎなくなった。セルジューク朝は、軍人に給与の代わりに土地の徴税権を与えるイクター制をとって社会の安定に努めた。また領内の主要都市にシーア派に対抗して学院(マドラサ)を設け、スンナ派の神学と法学を奨励した。帝国の小アジアへの拡大はビザンツ帝国を圧迫することになり、ヨーロッパのキリスト教団が十字軍をおこす原因となった。
3. イスラーム世界の拡大
12世紀後半のイスラーム世界地図
モンゴル軍を率いたフラグ(フレグ)は1258年にアッバース朝を滅ぼし、イラン・イラクを領有し、イル=ハン国を開いた。イル=ハン国は、初めネストリウス派キリスト教を支持したが、ガザン=ハンの治世時にイスラーム教を国教とした。エジプトではクルド人の武将サラディンが12世紀にアイユーブ朝を建てた。13世紀にはマムルーク出身の軍司令官によりマムルーク朝が建国され、インド洋・地中海貿易を独占し、その都カイロはバグダードにかわってイスラーム世界の中心として繁栄した。マムルーク朝はモンゴル軍を撃退するとともに、アッバース朝のカリフをカイロに復活させ、イスラーム国家としてのマムルーク朝の権威を高めた。
13世紀末のイスラーム世界地図
ベルベル人は、長い間アラブ人の支配に反抗を続け、そのイスラーム化は遅れたが、11世紀半ば頃からイスラーム化が急速に進んだ。彼らはモロッコを中心にムラービト朝とムワッヒド朝を建設した。両王朝ともに国土回復運動(レコンキスタ)に対抗するためイベリア半島に進出したが、ともに敗退した。この間にムラービト朝は西スーダンの黒人王国ガーナを滅ぼし、サハラ砂漠の南の地にイスラーム教を広める役割もになった。イベリア半島では13世紀にグラナダにナスル朝がおこったが、1492年にキリスト教徒に敗れて、イベリア半島のイスラーム支配は消滅した。しかし彼らがグラナダに残したアルハンブラ宮殿は、高度なイスラーム文明の繊細な美しさを現在に伝えている。