55.南アジア・東南アジアの植民地化
- イギリスのインド支配
- 東南アジアの植民地化
- 19世紀の東南アジア
55.南アジア・東南アジアの植民地化
1. イギリスのインド支配
英・仏はインド経営にあたって、ムガル帝国の内部対立をたくみに利用して勢力の伸張をはかった。初めはフランスが総督のデュプレクスの戦略でイギリスを圧迫したが、やがてイギリス東インド会社の書記クライヴが、フランスとベンガル地方政権の連合軍を、1757年にプラッシーの戦いで破り、ベンガル地方の徴税権を握り英領インドの基礎を築いた。その後、マイソール戦争・マラーター戦争・シク王国との戦争(シク戦争)をへて、インド全域に領土を広げた。産業革命がおこると、産業資本家たちは東インド会社のインド貿易独占に強く反対した。その結果、1813年には会社のインド貿易独占が、ついで1833年にはその商業活動そのものが全面的に停止され(翌34年に実施)、東インド会社はインドの統括機関にかわった。イギリスのインド支配が本格化すると、イギリス産綿製品が大量にインドに流入し、インドの伝統的綿工業は壊滅した。
インド人の間ではイギリス人に対する反感が強まり、1857年にインド人傭兵シパーヒーの大反乱となって爆発した。反乱はイギリス軍によって鎮圧され、58年にムガル帝国は滅亡した。その後、イギリスはインドの直接統治にのりだし、1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とし、直轄領と藩王国からなるインド帝国の成立を宣言した。
2. 東南アジアの植民地化
オランダは17世紀以降、ジャワ島を中心に支配地域を広げた。19世紀前半には、ジャワの王族を指導者としたジャワ戦争と呼ばれる反乱が発生したが、これを鎮圧した。そしてジャワその他の地での経済的搾取を強め、直営地でサトウキビ・コーヒー・藍などの輸出用商品作物の生産に、強制栽培制度を大規模に適用して大きな利益をあげた。1904年には、オランダ領東インドを完成させた。
スペインはフィリピンのマニラを根拠地として、メキシコ銀を用いてアメリカ大陸と中国との間の中継貿易で大きな利潤をあげた。
1898年、アメリカ=スペイン戦争に勝利して、スペインにかわり新たな支配者となったアメリカは、フィリピンを植民地とした。
インドの支配を固めつつあったイギリスは、アッサム地方をめぐる対立から、3次にわたるビルマ戦争のうち、1886年にビルマ(コンバウン朝)をインド帝国に併合した。また19世紀初めにマラッカを占領し、シンガポールにも利権を獲得し、1826年にペナンを併せ海峡植民地とした。さらに錫資源をもとめてマレー半島に支配を広げ、1895年マレー連合州を結成した。
東南アジア進出の機会をねらっていたフランスは、ベトナムの阮朝がキリスト教を禁止し、宣教師を迫害したことを口実に出兵した。そして1863年にはカンボジアを、1883年にはベトナムを保護国とした。宗主国の清朝との間に1884年に清仏戦争をおこし、フランスの保護権を承認させ、1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させた。東南アジアの国々が植民地化されるなかで、タイのラタナコーシン(チャクリ)朝だけは、植民地化をまぬかれた。それは同地が英・仏両勢力の緩衝地帯とされたことや、チュラロンコン(ラーマ5世)が近代化政策を推進して、独立に努めたからである。
3. 19世紀の東南アジア
東南アジアの植民地
- 紫:フランス
- 桃:イギリス
- 緑:オランダ
- 斜線:アメリカ