6.ローマの成立と発展
6.ローマの成立と発展
1. 都市国家ローマ
古代イタリア人の一派のラテン人がティベル河畔に建設した都市国家ローマは、紀元前6世紀末には先住民エトルリア人の王を追放して共和制を樹立した(共和政ローマ)。
初期の共和制では、貴族(パトリキ)がコンスル(執政官)をはじめ官職を独占した。貴族で構成される最高決議機関である元老院が国政の実権を握り、中小農民を主体とする平民(プレブス)を支配した。
ローマの領土的発展の原動力となったのが重装歩兵であった。これは武具を自弁した中小農民を主体に構成され、国防の重要な役割を果たすようになった。平民は参政権を要求して貴族と争うようになり、紀元前5世紀前半に護民官と平民だけの民会である平民会が設けられ、さらに紀元前5世紀半ばには従来の慣習法を文章で書きあらわした十二表法が制定された。
紀元前367年にはリキニウス・セクスティウス法が制定され、コンスルの一人は平民から選ばれるようになった。そして紀元前287年、ホルテンシウス法によって元老院の許可がなくても平民会の議決もローマの国法となることが定められ、貴族と平民の身分闘争は終わりをつげた。しかし、一応の民主化は実現したが、実態は元老院が絶大な権限をもち、国政を指導した。
2. 地中海世界の征服
イタリア半島の統一の完成とともにローマは西地中海域へ進出し、フェニキア人の植民市カルタゴとの間に、3回にわたるポエニ戦争をおこした。その第2回の戦いでは、カルタゴの名将ハンニバルのイタリア侵入を受け、ローマは何度も危機に陥ったが、大スキピオの活躍などで最後に勝利を得た。この間、ローマは東地中海にも進出し、地中海世界最大の強国となった。
3. 都市国家ローマから地中海帝国へ
地中海をほぼ制覇したローマの社会には、深刻な変化が生じた。中小農民は長年の従軍と、属州からの安価な穀物の流入によって貧窮し、その多くは「パンと見世物」を要求する浮浪人となった。一方、属州支配が進むと、属州の統治にあたった元老院議員や、属州の徴税の請け負いによって台頭した騎士階層が富を増大させた。支配層の彼らは土地兼併や公有地の占有などで大土地所有者となり、多くの奴隷を使う大土地所有制(ラティフンディア)が発展した。この結果、貧富の差が広がり市民の平等を原則とした共和政はいきづまった。共和政の危機をくい止めるため護民官に選ばれたグラックス兄弟は、大土地所有制限や中小農民への土地分配を行なって再建をはかろうとしたが、大土地所有者の反対にあい失敗に終わった。以後、ローマは有力政治家が争うなかで奴隷や属州の反抗があいつぐ「内乱の一世紀」に突入した。
紀元前1世紀に入ると、イタリア半島では同盟市戦争や大規模な奴隷の反乱もおこり、特にスパルタクスの率いる剣闘士(剣奴)の反乱はローマ人に脅威を与えた。混乱の中で台頭したのが私兵を率いる将軍たちであった。やがてこの混乱を武力によってしずめた実力者のポンペイウス・カエサル・クラッススは元老院に対抗し、紀元前60年に第1回三頭政治を始めた。その後、ガリア遠征で声望を高め、ポンペイウスをたおしたカエサルが独裁権を握ったが、元老院共和派のブルートゥスらに暗殺された。カエサルの部将たちは、すぐに第2回三頭政治を成立させ政権を握った。紀元前31年、オクタウィアヌスは、エジプト女王クレオパトラと結んだアントニウスをアクティウムの海戦でうち破り、100年に及ぶ内乱を収拾した。