東アジアの動向とヤマト政権の発展
6世紀に入り、ヤマト政権の加耶地域における影響は失われていくなかで、ヤマト政権は王統の断絶という大きな危機を迎え、継体天皇が即位するが、対新羅出兵に反発した磐井の乱がおこりヤマト政権の支配は動揺を続けた。継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇を中心とする勢力と、欽明天皇を中心とする勢力に分裂し、抗争を続けた(二朝並立)。
東アジアの動向とヤマト政権の発展
朝鮮半島では、5世紀に入ると、中国の北朝に朝貢を続けていた高句麗と、南朝に朝貢を続けていた百済との間に、激しい抗争がおこった。
475年には、高句麗は百済の王城である漢城を攻め落とし、百済王を殺すにいたった。百済は、王城を南の熊津に遷し、さらに538年には南方の扶余に遷都して半島南部の加耶の地へと勢力を広げていった。
このころには、加耶諸国の自立の動きもめざましく、ヤマト政権の加耶地域における影響は失われていき、512年には加耶西部の地域が百済の支配下に入った。
一方、6世紀に入って急速に国家体制を固めていった新羅も、百済との抗争の中、562年には残った加耶諸国を併合するにいたり、ここにヤマト政権の半島南部への影響力は後退した。
この間、ヤマト政権は王統の断絶という大きな危機を迎えた。大伴金村(生没年不詳)は、507年、越前から応神天皇の5世孫と称する男大迹王を迎えて即位させ(継体天皇)、この危機を乗り切ろうとした。
しかし、継体天皇は容易には大和に入れず、527年には、ヤマト政権の対新羅出兵に反発した筑紫国造磐井が、北部九州の勢力をまとめて反乱をおこし(磐井の乱)、新羅遠征軍の渡海をさえぎるという乱が勃発するなど、ヤマト政権の支配は動揺を続けた。
継体天皇の大王陵は、それまでとは異なり、摂津に築造された。大阪府高槻市の今城塚古墳(墳丘長180m)が継体陵ではないかとされている。後円部には三つの家形石棺が納められていた。内堤の張出部分から、殯の様子を示す形象埴輪群が出土した。
この磐井の乱は、物部麁鹿火(生没年不詳)により、翌年にようやく鎮圧された。
福岡県八女市の岩戸山古墳(墳丘長170m)は、墳丘や外堤・別区(方形の造出し)などから多数の破損した石人・石馬が発見されている。これは『筑後国風土記』にみえる磐井の墓の記述と合致する。それ以降、磐井の勢力圏に広く分布した石人・石馬は九州の古墳文化から姿を消す。
磐井の乱
『日本書紀』によると、「継体天皇21(527)年、近江毛野が加耶を復興するための対新羅軍を渡海させようとしていたところ、新羅と通じた筑紫国造磐井が北部九州に勢力を張り、毛野軍の渡海をさえぎった。継体天皇は翌年、物部麁鹿火を大将軍として派遣し、麁鹿火は筑紫の御井郡で磐井と激戦の末、ようやくこれを斬った。磐井の子の葛子は、糟屋屯倉を献じて贖罪を乞うた」とある。
この戦乱の本質は、北国出身の大王のもと、ヤマト政権の支配が各地方に浸透していく段階で、弥生時代以来、独立性の高かった北部九州連合との間におこった軋轢ととらえるべきであろう。
磐井が新羅をはじめとする朝鮮諸国と結んでいたと伝えられるのも、その地域性を考えれば当然のことであり、王権が動揺していたこの時期に、北部九州連合による独自の外交権の主張が復活したと考えられる。この乱の鎮圧が、国造制と屯倉制成立の契機になったとみられている。
継体天皇の死後、ヤマト政権は安閑天皇・宣化天皇を中心とする勢力と、欽明天皇を中心とする勢力に分裂し、抗争を続けた(二朝併立)。
二朝並立年表
西暦(干支) | 日本書紀 | 異説 | |
---|---|---|---|
527(丁未) | 古事記 | 継体天皇の死 | |
531(辛亥) | 継体25年 | 百済本記 | 継体・太子・皇子の死 |
532 | 空位 | ||
534(甲寅) | 安閑元年 | 書記の或本 | 継体の死 |
535(己卯) | 古事記 | 安閑の死 | |
536 | 宣化元年 | ||
538(戊午) | 元興寺縁起他 | 欽明7年 | |
540 | 欽明元年 | ||
571(辛卯) | 欽明32年 欽明の死 | 法王帝説 | 欽明41年・欽明の死 |
安閑・宣化王権を支えたのは大伴金村であったが、欽明王権は新しく台頭してきた蘇我稲目(?〜570)によって支えられた。
539年にいたり、両派の妥協のうえに欽明天皇の王権に統一されたが、大伴金村は、朝鮮半島政策の失敗を物部尾輿(生没年不詳)に非難され、540年に失脚することとなった。
このころ、全国各地に屯倉や名代・子代の部がおかれ、また中央では有力豪族の代表(大夫)による合議制が確立し、品部制( 氏姓制度)が編成されるなど、国家体制整備の大きな画期となった。
そして、それらの諸政策を推進したのが、大臣に任じられた蘇我稲目であった。稲目は、その娘2人を欽明天皇の妃とし、多くの皇子・皇女の外戚になることによって、その権力を確立した。
蘇我氏の台頭
蘇我氏は、大和南西部に基盤をもち、5世紀に大王家の外戚となっていた葛城氏から分立した氏族であった。
大和国高市郡曽我、ついで大和国高市郡飛鳥地方に進出し、稲目の代に蘇我氏として分立し、河内国石川郡をはじめとする全国各地に進出した。
東漢氏などの渡来系氏族を配下におくことによって、斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵を管理し、王権の財政を管掌したと伝えられる。稲目は、分裂していた王権の収拾にあたり欽明王権を支持することによって、欽明朝に権力を拡大した。
葛城氏の地位を継承し、その娘である堅塩媛と小姉君の2人を欽明天皇の妃とし、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇をはじめとする多くの皇子・皇女の外戚になることによって、その権力を強固なものにした。
また、大臣という地位に初めて就き、大夫層との合議のもと、内外の政治を統括した。
その一方では、蘇我氏と物部氏との抗争は激しくなり、538年に百済から公伝した仏教受容の可否をめぐって、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿は争った。
この抗争は、それぞれの子の世代にまでもちこされ、587年、大臣を継いでいた蘇我馬子は、王族や諸豪族を集めて、物部守屋を滅ぼした。