漢代の社会
- 前漢:農民の貧富の差、農民の没落・奴隷・小作人化・流民化、豪族の台頭(大土地所有の進展)
- 新:王莽の復古政策反発強まり赤眉の乱
- 後漢:郷挙里選により豪族が官僚として中央進出、宦官・外戚との争い。太平道・五斗米道の流行、黄巾の乱
漢代の社会
春秋・戦国時代以来、徐々に発展してきた農業生産力が古い村落共同体を壊していき、漢代には標準100畝(約4.5ha)ほどの耕地をもつ農民家族100戸ほどからなる集落(里)が形成された。
漢代の農民は、5〜6人程度の家族で標準100畝の耕地を耕し、郡・県・郷・里制の末端である里に組織された。その100畝からの収穫は100石(約1800ℓ)にすぎず、ギリギリの生活を余儀なくされていた。
これらの農民の間での貧富の差は、はじめそれほど大きくなかったとみられている。また、里内の日常生活の秩序は、父老と呼ばれる信望のある有力者層によって維持されていた。しかし実際には重い税、徭役や飢饉のため土地を売って没落する農民も多く、一部のものに土地が集中する傾向を促した。
こうして豪族と呼ばれる地方の有力者が現れた。彼らは広い耕地を所有し、当時もっとも進んだ農法である牛耕を取り入れ、また奴隷や小作人を使って耕作させた。こうした傾向は紀元前1世紀ころから顕著なものとなり、重い租税や徭役・兵役の負担に苦しむ農民のなかには、土地を失い没落して彼らの奴隷となったり、あるいは小作人として彼らの支配下に入るようなものも現れた。
そこで前漢は、紀元前7年、哀帝(漢)のとき大土地所有と奴隷の数を制限しようとして限田策を実施したが、効果は上がらなかった。さらに武帝(漢)以来郷挙里選(地方長官の推薦による官吏登用法)もおこなわれたため、地方で実力をもつ豪族は官僚となって権力を握った。
とりわけ後漢の政府は、漢代をつうじて農民の貧窮化・没落化の傾向は激しさを増し、多数の流民が発生するなど社会の矛盾は激しくなり、農民反乱(黄巾の乱など)を引き起こすことになった。
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