東方イスラーム世界
1038年 イスラーム化したトルコ人集団のセルジューク族は、ブワイフ朝の勢力を駆逐してバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を授けられた。マムルークを採用して軍事を整え、イランからイラク・シリアにおよぶ広大な領域を支配下におさめ、十字軍と戦った。
東方イスラーム世界
北アジアから中央アジアに進出したトルコ人は、遊牧民としての伝統を受け継ぐ、すぐれた騎馬戦士集団であった。彼らは勇敢で、忍耐心に富み、馬上から自在に弓を射ることを得意としていた。アッバース朝のカリフは、これらのトルコ人をマムルーク(奴隷兵)として採用し、親衛隊を組織したが、その後のイスラーム諸王朝でも、異教徒の世界から奴隷商人をつうじてマムルークを購入し、軍隊の中核に据えることが一般化した。これも、イスラーム社会に特有な人材活用のひとつに数えることができる。
中央アジアで遊牧生活を送っていたトルコ人は、10世紀に入ると、人口増加の圧力をうけて西方への移住を開始した。彼らはアラル海付近に定着し、やがてイスラームの商人や神秘主義者との接触をつうじてイスラームに改宗した。トゥグリル=ベクに率いられたセルジューク族も、このようなイスラーム化したトルコ人の集団であった。
セルジューク朝(1038〜1194)を興したトゥグリル=ベク(1038〜1063)は、1055年、ブワイフ朝の勢力を駆逐してバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられた。
これ以降スルタンは、スンナ派イスラーム国家の君主の称号として広く用いられることになる。
セルジューク朝は、同族のトルコ人マムルークを採用して軍事を整え、イランからイラク・シリアにおよぶ広大な領域を支配下におさめた。またイラン人の宰相ニザームルムルク(ニザーム・アル=ムルク)は、ファーティマ朝によるシーア派の宣伝活動に対抗して、領内の主要都市につぎつぎとニザーミーヤ学院(マドラサ)を建設した。これらの学院ではスンナ派の神と教育をおこなうイスラーム世界の最高学府であった。
ガザーリー(1058〜1111)
ラテン名はアルガゼル。イスラーム史上最も偉大な思想家として知られる。イランのホラーサーン地方に生まれ、法学や神学・哲学などを修めたあと、バグダードのニザーミーヤ学院教授に任じられた。しかし学問と信仰の統一になやんだガザーリーは、教授職を退き、長い放浪生活のすえに、イスラーム神秘主義こそ真理にいたる道であると悟り、この観点から『宗教諸学のよみがえり』を著した。その著作活動をつうじて、それまで批判の対象とされてきた神秘主義思想は、イスラーム信仰のなかに正しく位置づけられることになったのである。
十字軍がおこるきっかけは、セルジューク朝がシリアに進出し、イェルサレムを支配下においてキリスト教徒の巡礼を妨害したことにあるとされている。しかし事実は、セルジューク朝のシリア進出によって国境を侵害された東ローマ帝国が、ヨーロッパのキリスト教国にイスラームの脅威を訴え、救援を求めたことが原因であった。しかし強盛を誇ったセルジューク朝も、マリク・シャー1世(スルタン)の没後は次第に衰え、12世紀の半ば過ぎになると、王朝は各地の地方政権に分裂した。アッバース朝カリフを保護下においたイラクのセルジューク朝も、アラル海付近におこったホラズム・シャー朝(1077〜1231)によって1194年に滅ぼされた。
一方、同じトルコ人のカラハン朝(10世紀半ば〜12世紀半ば)は、東、西トルキスタンを統一して、中央アジアに初めてイスラームの思想と文化を導入した。
またアフガニスタンにおこったガズナ朝(962〜1186)は、11世紀初めころから北インドへの侵入を開始し、ガズナ朝第3代君主マフムード(ガズナ朝)(998〜1030)は、インド中西部のソムナートまで遠征して、「イスラームの擁護者」の名声を獲得した。