23.西ヨーロッパ中世世界の変容(中央集権国家の成立)
23.西ヨーロッパ中世世界の変容(中央集権国家の成立)
1. 英仏の王権と身分制議会
イギリス
イギリスではノルマン朝のあと、12世紀にフランスのアンジュー伯がヘンリ2世(イングランド王)として王位につきプランタジネット朝をひらき、フランスの西半分の領土をも領有した。13世紀初めジョン(イングランド王)はフランスとの戦いに敗れ、フランス国内にもっていた領土の大半を失い、インノケンティウス3世(ローマ教皇)からも破門されるなど失政を重ねた。そのうえ財政窮乏のため重税を課したので、貴族は結束して1215年マグナ・カルタ(大憲章)を王に認めさせた。
次のヘンリ3世(イングランド王)はマグナ・カルタを無視したので、貴族の指導者シモン・ド・モンフォールは聖職者や貴族に加え、都市・州の代表が参加する会議を招集した。これがイギリス議会の起源となった。その後1295年にはエドワード1世のもとで模範議会が招集され、さらに14世紀半ばには上院(貴族院)と、州と都市を代表する下院(庶民院)とからなる二院制議会が成立した。
フランス
一方、フランスではカペー朝のフィリップ2世(フランス王)は、ジョン(イングランド王)と争って国内の英領の大半を奪い、ルイ9世(フランス王)は異端のアルビジョワ派(カタリ派)の討伐を進め南仏をおさえた(アルビジョワ十字軍)。さらにフィリップ4世(フランス王)は聖職者への課税でボニファティウス8世(ローマ教皇)と争い、1302年、聖職者・貴族・平民の代表者を集めて三部会(身分制議会)をひらき、その指示を得て教皇を圧迫し、国王の威信を高めた。
2. 百年戦争とバラ戦争
フランス
フランスでカペー朝が断絶し、ヴァロワ朝が成立すると、イギリスのエドワード3世(イングランド王)は王位継承権を主張してフランスに侵入し、百年戦争をおこした。この戦争はフランドル地方をめぐる英仏の利害の衝突が大きな原因となっている。戦況は終始イギリスが有利であった。しかしフランス国内に救国の乙女ジャンヌ=ダルクが現れ、英軍のオルレアン包囲を破ると戦況は逆転し、フランスが最後の勝利者となった。この長期にわたる戦争で、フランスでは諸侯・騎士が没落し、シャルル7世(フランス王)は大商人と結んで財政を立て直し、常備軍を設置したので、中央集権化はますます進展した。
イギリス
一方、敗戦国イギリスではランカスター家とヨーク家の王位継承争いがおこり、封建諸侯もこれに加わって、1455年からバラ戦争という内乱に発展した。1485年、内乱をおさめたヘンリー7世(イングランド王)がテューダー朝をひらき、絶対王政の基礎を確立した。
3. イギリスとフランス
イギリスとフランスの領土
4. スペイン・ポルトガルの成立とドイツ・イタリアの分裂
イベリア半島
イベリア半島においても王権の伸張がみられた。8世紀初めから約800年にわたるイスラーム教徒への国土回復運動(レコンキスタ)を通じてアラゴン王国とカスティリャ王国が統合され、1479年スペイン王国が成立した。同王国は1492年、イスラーム勢力の最後の拠点グラナダを陥落させて国土統一を果たした。ポルトガル王国も12世紀にカスティリャから独立したのち、インド航路の開拓を進めるなど、大航海時代をきりひらいていった。
ドイツ
ドイツは大諸侯の力が強く、歴代の皇帝はイタリア政策に力を注ぎ国内を留守にしがちであったため、帝国の統一はおぼつかず、いわゆる大空位時代には帝国は混乱をきわめた。1356年、カール4世(神聖ローマ皇帝)は金印勅書を発布して皇帝選出権を聖俗の七選帝侯にゆだねた。15世紀以降、皇帝はハプスブルク家から出されるようになったが、国内には300ほどの領邦が分立し、統一はますますむずかしくなった。
イタリア
イタリアではドイツ・フランスなど外国の干渉が加わって、教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)との闘争が激しくなり、国内統一が困難になった。