鎌倉幕府の滅亡
後嵯峨天皇が院政の後継者を指名せずに死去すると、皇統は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山上皇の流れをくむ大覚寺統に分裂し、天皇位の交代のたびに幕府に工作し、次代の天皇を自統から出そうと画策した。1317年文保の和談ののち即位した大覚寺統の後醍醐天皇は朱子学を学び政治に強い意欲を示し、父後宇多天皇の院政を排して親政を開始し倒幕に踏み出す。1324年正中の変、1331年元弘の変はいずれも露顕して失敗し隠岐島に配流された。足利尊氏が幕府を離反すると全国の武士たちも討幕軍に身を投じ、北条氏は敗れ、北条高時以下北条氏一族と主だった御内人は自殺、鎌倉幕府は滅亡した。
鎌倉幕府の滅亡
蒙古襲来ののち御家人の窮乏は厳しさを増し、彼らは不安感と施政への不満を高めていった。鎌倉幕府は得宗の専制を推進し、幕府の指導力を強化して危機的な事態に対処しようとはかった。北条氏一門と御内人に支えられた得宗のもとには種々の権限が集積された。北条貞時のあとは子息の北条高時(1303~33)が継いだが、高時は14歳と若年であったため、御内人の代表である内管領長崎高資(?~1333)が政治の実権を握った。得宗専制政治の進展は、御家人たちに疎外感を抱かせ、幕府へのいっそうの反感をかきたてた。
目を京都に転じてみると、承久の乱後、朝廷では上皇による院政が行われていた。皇位の継承と 治天の君として院政を担当する上皇の認定には、ともに幕府が深く関与していた。北条泰時の後押しによつて即位した後嵯峨天皇(在位1242~46)はやがて後深草天皇(在位1246~59)に譲位して院政をしき、ついで後深草天皇の弟、亀山天皇(在位1259~74)を皇位につけた。後嵯峨天皇は院政の後継者を指名せずに死去し、皇統は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山上皇の流れをくむ大覚寺統とに分裂した。両統は皇位をめぐって争い、ぼう大な天皇家領荘園の相続をめぐっても争った。持明院統は長講堂領という180カ所に及ぶ荘園群を、大覚寺統は八条院領という220カ所の荘園群を獲得し、互いにさらに多くのほかの荘園の領有をめざした。
両統は天皇位の交代のたびに幕府に工作し、次代の天皇を自統から出そうと画策した。幕府は両統が交互に即位する両統迭立を勧め、1317(文保元)年には次代の天皇について、両統がよく話し合って決定するよう申し入れた。両統は勧告にしたがって協議した(文保の和談)。幕府はこのとき、今後、皇位の継承には干渉しない、と朝廷に宣言したという。
両統迭立
1242(仁治3)年、四条天皇(在位1232〜42)が幼くして死去したあと、朝廷は順徳天皇の皇子を皇位につけようとした。ところが後鳥羽天皇と順徳の父子を忌避する幕府は強硬に反対し、土御門天皇の皇子後嵯峨天皇を即位させた。幕府が実力行使の挙に出たのはこのときだけであるが、皇位決定の権は最終的には幕府にあったと考えることもできる。そのために持明院統も大覚寺統も、幕府の支持を得ようと激しく運動したのであった。幕府は両統の調停役をつとめたことになるが、このとき、朝廷をコントロールするために積極的にこの役をつとめたのか、本当はなるべく朝廷とかかわりをもちたくなかったのか、幕府の本当の意図は明らかでない。
文保の和談ののち、即位したのが大覚寺統の後醍醐天皇(在位1318〜39)であった。宋(王朝)の朱子学を学んだ天皇は、政治に強い意欲を示し、父後宇多天皇(在位1274〜87)の院政を排して天皇親政を開始した。人材を登用し、記録書の機能を盛んにし、延喜・天暦の時代を模範としてその再現につとめた。
平安時代に理想を求めた天皇が、幕府に好意を抱くはずはなく、朱子学の大義名分論からも幕府への不満をもった。幕府が後二条天皇(在位1301~08)の皇子を皇太子に定め、そのつぎの皇太子を持明院統の量仁親王と定めたことも、天皇の行動に影響を与えた。自分の皇子に位を譲って院政を行うためには、天皇は幕府を否定しなければならなかった。一方、幕府は御家人の反感をかい、また悪党の跳梁に困惑していた。幕府への批判は人々の間に広がっていった。こうした状況にあって、天皇は武力による討幕に踏み出したのである。
天皇が近臣日野資朝(1290〜1332)。日野俊基(?~1332)らと協議した討幕計画は、畿内の武士・僧兵を味方につけて六波羅探題を襲おうとするものだった。ところが1324(正中元)年、この計画は明るみに出て、日野資朝・日野俊基は幕府に逮捕された。幕府はこのときは寛容で、資朝こそ佐渡に流したが、俊基を許し、天皇も間責しなかった。これを正中の変という。
いったんは挫折したものの、天皇の討幕の意志は固かった。天皇は護良(1308~35)・宗良(1311~85)両親王を延暦寺の座主に任じ、僧兵の力をひき寄せようとした。
俊基は山伏の姿になって、畿内の武士を説いてまわったという。けれどもこの企ても1331(元弘元)年、武力での討幕に反対する近臣吉田定房(1274~1338)の密告によって露顕した。幕府は六波羅探題に天皇の捕縛を命じた。天皇は近臣たちと京都を脱出して山城の笠置山に潜行し、畿内の武士たちをつのった。河内の悪党と考えられる楠木正成(1294〜1336)が赤坂城に挙兵したのはこのときである。しかし、そのほかに天皇の呼びかけに応じようとした者はなく、頼みの僧兵も動かなかった。天皇は捕らえられ、赤坂城は落城して正成は姿をくらました。幕府は天皇を隠岐島に流し、数名の近臣も流罪に処した。日野俊基と配流中の日野資朝は首をはねられた。これが元弘の変で、幕府は持明院統の光厳天皇(在位1331~33)を立てた。
天皇の配流をもって事件は鎮圧されたかにみえたが、北条氏に不平をもつ武士、とくに畿内の悪党の動きがここからにわかに活発になる。楠木正成は河内の千早城で再び挙兵し、幕府軍と戦った。当時の戦いの作法にといわれない正成の縦横無尽な戦い方は、史料に記された悪党の戦法そのままである。大和の山間部では護良親王が兵をあげ、悪党勢力の結集をはかった。播磨では親王の指令を受けて、悪党出身の赤松円心(1277~1350)が立ちあがった。彼らは幕府の大軍を相手に、いずれも粘り強く戦った。
畿内で戦いが続くうちに、地方でも反幕府の機運は高まっていった。肥後の菊池氏、伊予の土井・得能氏らの有力御家人も反旗をひるがえした。後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆の名和長年(?~1336)に迎えられ、船上山にこもった。天皇のもとには多くの武士がはせ参じた。
幕府は船上山を攻撃するために、足利尊氏(1305〜58)を京都に派遣した。足利氏は源氏の名門で、源頼朝一流亡きあとの源氏の正嫡と広く認められていた。代々得宗家と縁戚関係を結び、得宗家につぐ家格を誇っていた。鎌倉を出発した高氏はひそかに天皇と連絡を取りながら京都に進み、ここで幕府を討つ意志を明らかにした。同時に各地の有力御家人に使者を送り、討幕への協力を求めた。
足利尊氏の離反は、形成を凝視していた全国の武士たちに決定的な影響を与えた。彼らは先を争って討幕の軍に身を投じ、各地の幕府・北条氏の拠点を攻撃した。高氏は赤松円心らと六波羅を攻め落とした。関東では鎌倉を脱出した高氏の子千寿王(のちの足利義詮)のもとに、武士たちが続々と集結した。源氏一門の新田義貞(1301〜38)がこの大軍を指揮し、鎌倉に攻め入った。激戦の末に北条氏は敗れ、北条高時以下北条氏一族と主だった御内人はつぎつぎと自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。1333(元弘3)年5月、高氏の挙兵からわずか1ヶ月のちのことであった。後醍醐天皇は伯耆をあとにし、途中、光厳天皇の廃位を宣し、京都に帰った。ここに、後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生したのだった。